3歳児シリーズ、前回は壮大なテーマの遊びが展開されましたが、ファンタジーの遊びは一区切り。今までの遊びを踏まえて、いよいよ七夕まつりの現実的な準備に入っていきます。

 

♯2

ヤァ、僕はくまだよ

七夕まつり本番を見据えて、本番と同じ雰囲気を作ってみます。言葉で説明するのではなく体験で学ばせる。保育士の工夫が光ります。

 

いきなり自由にやらせると前回の遊びの続きが展開されてしまうので、「いつもと違うぞ」という雰囲気を感じてもらっています。人は「体験」で学んでいくのです。

 

 

新人類は生まれ変わる必要なし

前回遊んだ星型の画用紙とスズランテープ。これらを自由に選んで制作コーナーへ持っていきます。「これで発表する時のお洋服を作ってみよう」という声掛けでスタートです。

 

ブルーシートに今回潜ろうとしないのは、前回の遊びでやり尽くしているからですね。もう、やる必要がないんです。遊びとはそういうものです。飽きたのではなく、必要がない。満足したと言えば理解しやすいかもしれませんね。

 

 

自由遊びは制作でも基本は同じ

スズランテープに星型の画用紙をつける子が多いですね。付け方は2種類。セロハンテープを使う子もいますが、いつものように、のりを使用する子もいます。何をどのように使って作るかは自由。制作だからといってクラス全員に同じものを作らせるようなことはしません。それは古い保育です。自分で工夫できるような設定で保育していきます。

 

例えば、のりでつけようとする。ベタベタになるし、すぐに接着されないから衣装として身につけた時にすぐ取れてしまう。何回やってもダメ。そのうち、しっかりと接着した衣装を身につけたお友達を発見する。どうやったのか聞いたらセロハンテープを使ったことを教えてもらった。どこにセロハンテープがあるのかキョロキョロ見渡す。自分でセロハンテープの場所を発見し、実際にセロハンテープを使ってみたら、全然取れない。「そういうことなのか!」と深い学びを得た。

 

こういうプロセスを体験すると理解が深まり記憶にも定着されます。自分で気がつく前に大人が教えてあげてしまうと、言われた通りにやるだけの人間になる。そうなると自分一人で次にやろうとした時に同じミスを繰り返すだけになります。

 

 

発表し合うという環境設定

2チームに分かれて作ったものを発表し合います。すでに身につけている子もいれば、手に持っているだけの子もいる。担任は正解を言わない。みんなの発表を見て「こうすれば良いんだ」と制作の意味を理解する子もいるし、「こうやって作るとかっこいい!」と真似をする子もいる。そうやって子ども同士の対話によって活動の意味や面白さを理解し、個人の成長を促していきます。

 

 

発表すると子ども自身に気付きがある

後半のチーム。男の子2名は制作したものを持っていません。つまり、さっきまでの時間で何も作っていない。発表する体験を通して自分で気がつくわけです。みんなが理解してできていることを自分ができなかったんだということに気がつく。大人が指摘してあげるとか、サポートして作ってあげちゃうとか、そういうことじゃない。自分自身で「作りたい!」という意欲を引き出すようにするんです。

 

 

興味関心は人それぞれ

発表の後は2度目の制作タイムになります。しかし、制作を始めない子が3名、椅子から動こうとしません。

右2名は「すでに制作が完了している」と思っているから動かないんです。時間をかけてもっと良いものにしようとか工夫しようという考えが苦手。「もうこれで良いじゃん」と思っている。自由遊びではその動きの多さとひらめきで周囲の遊びをぐいぐい引っ張りますが、逆に言えばじっくりと一つのことに集中する遊び方がうまくできないタイプ。

 

左の子は手に持っている星にお絵描きをしておしまいにしている。「身につけるものを作るという面白さを感じ取っていない」から動かない。この子の興味関心が「手に持つ」ことにある。だから「メロン」などの絵カードを手に持って歩く。手に持つのが楽しいから、今日の活動もこれで終わりだと思っている。

 

大人からすれば指示に従わないことを注意するという判断になる場面だと思います。ですが、それぞれ違った意味で制作は「完成」しているから発表の場に残っている。制作の後に発表するという流れを理解しているからです。何もおかしくはないんです。子どもの気持ちや考えに寄り添って理解するというのは、こういうことです。そこに保育士が気がつけるか。ここで保育士としての力量が試されるんです。

 

この場合の正解は、みんなが時間をかけたらもっと素敵なものを作ってきたということを「発見」して自分も「もっと作りたい」と思わせること。大人が指摘することじゃない。それがわかっているから担任は何も言わない。素晴らしい。

 

 

そんなうまくいかないのが保育

しばらくおしゃべりしていましたが暇になって正面にあったパーテーションの飾りを触り始めました。すると偶然パーテーションが倒れてしまい、それを起こすという遊びになってしまいました。その楽しさを見て、男の子も集まってきた。あまり良くない展開です。

 

暇というのは人を狂わせる。

 

ダメなことほど面白いのもまた事実

パーテーションが倒れたのを起こす遊びになったので、起こすのを邪魔をするという役割を行う子が現れました。起こす人、邪魔する人。逆の立場でやり取りする遊びですね。ゾンビと人間、白い箱を持って逃げる人と追いかける人、ブルーシートに潜る人とシートを上にかける人。逆の立場での遊び。つまり、これも今までの遊びの延長線にあります。

 

 

偶然こそ至高

そのうち下敷きになる子が出てきて、それを助ける子と邪魔をする子に分かれます。つまり、3つの役割に分かれて遊ぶという展開になりました。下敷きになった人、助ける人、それを邪魔する人。カバオくん、アンパンマン、バイキンマンの関係性ですね。

 

ここにきてまさかの進化です。

 

「私」と「あなた」という2者関係の遊びから3者の遊びになっているのはかなりすごいことです。「私」でいる時は「あなた」を見れば良いけど、3人の関係を理解するには空中から3人を眺める視点(客観性)が必要だからです。

 

 

プリキュアがパーテーションの破損を発見

パーテーションの足の部分が曲がってしまいました。「やばい」という顔をする子もいれば、その意味がわからない子も。備品を壊すのは遊びではありません。これは破壊活動です。楽しければ遊びになるわけじゃない。

 

この曲がった足を見て自然に遊びは流れ、解散していきました。叱らなくても子どもたとはちゃんと感じ取るものです。もちろん、そうやってここまで育ててきたというのもあります。人の気持ちやモラルを学んできたからこそ、自分で自主的に良くない遊びを終わらせることができる。

 

この後私が曲がった足を直しました。子どもの前で修理することも大切な学びの提供です。修理とか回復とか、そういう体験は生きる希望へとつながるので体験させた方が良い。失敗したって人生は取り返しがつくんだという実感を小さいうちから体験しておきます。

 

全集中すると周囲が見えなくなる

スズランテープに色を塗るのに夢中で床に描いてしまいました。シートの上で描くように子どもたちには伝えていましたが、夢中になるとシートと床の区別ができなくなる。それだけ「塗りたい!」という意欲がすごいのと「ここに塗る!」という集中力がすごいということです。これもうちの園では叱ることはしません。周りが見えなくなるほど夢中になるというのはすごいことなんですよ。それを叱ると熱中しない人間が出来上がってしまう。こういうのを叱っていると無気力な人間になってしまう。

 

この場合は制作シートが透明なのがいけないんですよね。どこで制作すれば良いのかが、わかりにくいんです。保育士の環境設定が悪い。

 

ユニバーサルデザインと言いますが、誰にでもわかりやすい表示や環境にしようというのが現代の世界常識です。学校なんかはユニバーサルデザインが一時期流行りましたから、みんなやってます。幼児教育も同じ。わかりやすい設定にしていくことは保育の基本です。

 

全員がプリキュアになる

誰かが「プリキュアみたい。」と言いました。言われてみれば衣装がそれっぽい。新聞紙遊びの時にゾンビをプリキュアが倒した時は一ヶ月後にこういう展開に繋がるなんて予想できなかったですね。

 

1回目の制作の時間だけではここまで辿り着きません。発表を挟んで2回目の制作時間があったから、ここまで来ることができました。工夫するのが楽しいと思えるような子が増えてきています。

 

 

助けに来るプリキュア

2回目の制作時間が終わって2回目の発表の時間がやってきました。しかし、天の川に倒れている女の子。さきほどパーテーションの下敷きになるのを楽しんでいた子です。

 

倒れているのがこの位置。実は理由があります。

 

 

いつか王子様が

パーテーションが壊れてパーテーション倒す遊びはすでに解散していますが、私が修理したことによりパーテーションが復活しています。

 

つまり、こういうことです。はい。

 

潰されたかったというか下敷きになりたかったんですね。みんなに助けてもらうという遊び、この子の中で継続中だったようです。たくさん集まってきて、みんなでパーテーションを持ち上げて助けてもらいました。

 

衣装を作って欲しいという保育士のねらいがあります。しかし、その子にとって今もっとも興味があるのはみんなに助けてもらう遊び。その計画とのズレにどう対応するのか。とても難しい問題です。正解はありません。

 

誰かに助けてもらうという遊び。誰かを助ける遊び。人を助ける、助けられるという体験を何度も繰り返しているというのは深い意味があります。ただふざけているわけじゃない。この子にとって、この遊びに深い意味があるはずです。子どもたちの中では、愛を交換しているのかもしれません。

 

謎の強キャラ感

そこへ5歳児クラスの子どもたちが見学にやってきました。3歳児の発表の練習を見てアドバイスをしようというものです。

 

パーテーションの下敷きになって遊ぶ雰囲気ではなくなりました。中学で部活の先輩が来たら、それまでサボっていた後輩が急に真面目に練習し始める感じですね。わかります。

 

さぁ、「お手並み拝見」といこうか

ちゃんと配置につき、発表を5歳児に見てもらう3歳児たち。縦割りの異年齢保育の良さが出ていますね。

 

本番と同じく、衣装を来て、歌を2曲披露します。

 

 

子どもだけでプロジェクトを成功させる方向へ

発表を見ていた5歳児から感想をもらいます。

 

保育士が感想を言うとか指摘するのではなく、子ども同士の関わりの中で学び取っていく。だんだん「プロジェクト保育」っぽくなってきましたね。ウォーキングデッドとか言ってた頃が懐かしい。

 

アイデアを提示した方にも学びがある

5歳児のアイデアで発表後に星を投げてみるのはどうか?という提案があり、実際にやってみました。数人しか投げなかったけど、それを見た他の子達が「なるほど」という顔をしているのがわかりますね。こうやって理解していくわけです。

 

できたか、できなかったか、ではなく。一人ひとりが何を学んでいたか。

 

そういう視点で保育をしています。

 

実は、後ろの方に数人が寝転んでいます。パーテーションを倒す遊びが残っている子達です。みんなで発表することに興味がない。なかなか困った展開です。そして、準備はあと1回だけ。こんな感じで本番に間に合うのでしょうか。

 

次回、長らく続けてきた3歳児シリーズ、最終回です!