2歳児と3歳児、4歳児と5歳児に分かれて自由遊びをしていくプロジェクト。最終的にクリスマスのイメージを共有して遊べるのか、というものですが、今回は4歳児5歳児の続きを解説していきます。遊びが深まっていく様子をご覧いただきます。

 

 

♯3 (4歳児と5歳児 第2回)

ピンチはチャンス

4歳児と5歳児の第2回。前回5歳児がバランス遊具を独占してしまったので初期位置を入れ替えて準備していましたが、5歳児の初期位置を間違えてしまい、またもや5歳児の目の前にバランス遊具がある状態に。

 

保育士のミスも面白い。私ならこういうミスは絶対にしませんからね。「偶然」という因子は、「いつも通り」「当たり前」を壊していく。

 

ミスとか失敗って、面白いんですよ。漫才のボケみたいなものだから。漫才はツッコミの人の上手さでボケが活きたり面白さが倍増したりします。失敗をどう活かすかが、ツッコミの腕の見せ所です。ピンチはチャンスってやつです。失敗しないようにするのではなく、失敗したからダメだということでもなく、どうすればもっと面白くなるかを考えれば良い。どうすればもっと教育的効果が生まれるかを考えれば良い。そういうことです。

 

 

バランス遊具の取り合い(予想通り)

超スピードでバランス遊具を獲得する5歳児たち。

 

別に使いたいわけじゃなく人気だから持っておきたいみたいな気持ちもあるんですよね。限定品やレア物を手元に置いておいて優越感に浸るというか。

 

2歳児3歳児のアンパンマンボールと同じです。他者を意識しているから自分の所有物にしたくなる。つまり、実はそんなに使いたいわけじゃないんですよ。本質的には。

 

 

どうすればいい?

滑り台のマットの上にみんなで乗るという遊びが始まりましたが、当然人数に限界があるのでマットの上に乗れない子が出てくる。

 

そこに現れる5歳児。泣いている4歳児に優しく声をかけ、みんなにどうすればいいかを問いかける。解決をしてあげるのではなく、みんなで考えようというスタンス。素晴らしい。

 

では、この子たちがなぜそういうスタンスで解決しようとするのか。それは私たち保育士のスタンスを真似ているからです。保育士が叱ってばかりだと、子どもたちはお友達にも強い口調になる。保育士が笑っていれば子どもたちもよく笑う子になる。みんなで解決することが良いと思っている保育士のそばにいれば、みんなで考えようとする子になる。

 

なんていうか、みんな担任に似てくる。そして、大きな意味では園長の私に似てくる。そして家庭の影響の方が大きいですから、当然親に似てくる。それらが混じり合って子どもの心が育っていく。大人の責任って大きいですよね。

 

 

自分たちで解決したからこその笑顔

詰めて座ってみんな乗れるようにする解決策が提案され、みんなで実行する。記念に写真を撮ってくれというので撮りました。成功した記念。トラブルを自分たちで解決したという喜びを私に見てくれというメッセージでしょう。

 

4歳児と5歳児が混ざり合っています。前回は4歳児と5歳児で遊びが完全に分かれていたので、今回は違う展開になりそうです。

 

 

輪投げ屋さん、again

前回のプラポイントの丸を売るお店屋さんの遊びが記憶に残っているので、同じように丸を集める5歳児。そして、丸を私に渡してきました。

 

「輪投げ屋さんです。投げてください」

 

これは、この子が一年前の遊園地プロジェクトでやっていた輪投げ屋さんの再現になっています。あの時はほとんど誰もお客さんになってくれませんでした。1年越しの成功体験です。

 

こういうのを私が覚えていて「一年越しに成功しているじゃん、嬉しい!」という気持ちでニコニコしていることで、子どもが「なんだかわかんないけど園長先生が私の方を見て喜んでいる」と思う。そうすると「この輪投げごっこ遊びが良いことなんだ」とか「みんなで遊んでいることに喜んでいるのかな」と思って、プラスの評価と今の行動が結びつく。そして、また同じようなことをやってみようと思う。

 

これでプラスの行動が強化され、意欲が引き出され、こういう人間になりたいという気持ちが子どもの中に芽生えていく。大人が感動できるかどうかが、子どもの育ちにはとても大事な要素です。

 

 

撮りながら投げるの大変

私が写真を撮りながら投げる。滑り台マットの上に立つ子たちの頭に丸を入れるのがルールになりました。

 

遊びのルールは何もなかった。輪投げをやりたい子がいて、自分が輪投げの的になることを思い付いた子がいた。そしてそれが面白そうと思って真似をする子が出てきた。

 

興味が一致すると、一緒に遊べるという話ですね。これは2歳児3歳児の前回のメインテーマでした。「面白そう!」という遊びが起こると、一気に興味が一致して遊びが大きく動き出します。

 

 

保育士を巻き込む遊び

あまり自分が遊びの中心になるのは好ましくないので、私自身が引いたところ、担任を呼んで輪投げ屋さんを続行しました。良い傾向です。

 

きっかけは私が作りましたが、子どもが遊びを創り出してほしいので引きました。だけど、こうやって子どもがどんどん主体的に動いていくのは良いですね。

 

1年前の遊園地プロジェクトでの輪投げ遊びは、物に向かってプラポイントの丸を投げるというものでした。今回は人の頭に向かって投げるルールなので、意味合いが大きく変わっています。大人数でなければできない遊びです。そして、役割分担が必要な遊びになっています。さすが4歳児5歳児クラスです。

 

 

基地から眺める他者の盛り上がり

次に5歳児の担任も呼ばれて盛り上がります。その様子を部屋中の子どもたちが見ている。遊びの中心が輪投げになっていきます。場所が部屋の中央だったということで、全員から目立つ形で遊びが展開されていたおかげですね。

 

ちなみ前回のラストで作った5歳児女子の基地ですが今回も一部の子が作っています。いまいちみんなの輪に入れない子たちです。

 

このように前回の遊びを再現しようとする子と、その時の思いつきで遊びを変える子。この2つの傾向を持つ子どもたちが混じり合うためには、どちらかの遊びが興味を引く物にならなければいけません。ものすごく楽しそうだからやってみたい、という遊びにならなければ混じり合わないんです。

 

 

やっと子どもだけの遊びになった

「僕もやりたい」と4歳児が集まってきて、保育士ではなく子ども同士で遊べるようになりました。学年も男女も超えて一緒に遊ぶ。良いですね。

 

ここでの遊びに入るための「資格」は輪投げ屋さんに「どうぞ」と言われること。近くで見ていたり、僕もやりたいと言ったり。それぞれが輪投げ屋さんに選ばれることを期待して集まっています。

 

 

マジですごい上手でした

先程まで輪に入れずに基地にこもっていた5歳児女子の1人。まさかの輪投げの天才でした。投げたものが連続で入るので大盛り上がり。子どもたちが私を見ているのは、喜びをシェアしたい人が私だからです。本当は子ども同士で顔を見合わせてほしいんだけど、ちょっと私が目立ち過ぎていますね。

 

めちゃめちゃ盛り上がるということは、そこに入れない子からすると「クラスの陽キャグループが盛り上がってるけど、俺たちには関係ねぇ」という雰囲気になるんですよね。

 

光と影。どこかが眩しく光ると、その影は色濃くなる。光と影は混じり合わない。

 

 

絶望の寝っ転がり

こちら、その盛り上がりに入らない人たち。影の皆さん。

 

その中でも前回、遊びに入るためには「資格」がいる、という気づきを得た4歳児が中央に座っています。せっせと丸を集めていますね。

 

 

献上とは目上の人に物を差し上げるという意味だそうです

集めた丸を輪投げ屋さんに献上します。

「あ、ありがと」

 

だけど僕もやりたいとは自分からは言えない。健気ですね。輪投げ屋さんには、その気持ちに気付いてほしい。

 

 

お姉さんの気遣い

「やる?」と誘われて、輪投げに入ることができました。流石は5歳児。4歳児の気持ちを汲んでくれました。異年齢の良いところが出ています。同じ学年だったら、スルーされていたでしょう。

 

「資格」「暗黙のルール」を理解してきて、遊びに入るためのコツをつかんだようです。

 

 

新しいルールの誕生

先程、輪投げで優勝した5歳児、基地の中に輪投げの内側の部分の小さい丸を集めていました。それをもらいにいく4歳児。黄色い小さい丸を受け取ります。

 

 

はい、お金

その小さい丸を輪投げの人たちに持っていく。小さい丸はコイン。お金の代わりに機能し始めました。

 

このように、輪投げ遊びがお金が必要な遊びに進化しています。コインも「資格」ですね。これがないと輪投げができないというルール遊びに変わったということです。

 

さっきまでは輪投げ屋さん本人に「どうぞ」と指名された人が投げるというルールでした。しかし、周囲の子がコインを持ち出したことで、集団のルールが変わった。輪投げ屋さんに指名権があったのに、それが今コインをたくさん持っている子に指名権が移っています。

 

そして、急なルール変更はついていけない子が出てくることになる。

 

 

抗議するのもされるのも良い体験

注意深く観察していないと、みんなの遊びのルールの変化に気がつかない。左の4歳児の女の子は、なぜ自分が輪投げをさせてもらえないのか分からず、抗議をしています。

 

大人が決めたルール遊びは、ルールが固定化されてわかりやすいのですが、子ども主体で行うルール遊びは、次々にルールが変化していくため、わかりにくい。だからこそ、今みんなが守っているルールは何なのかを観察し、誰が場をコントロールしているのかを見極め、理解していく力が養われるのです。

 

 

ミドリーズ

時を同じくして、5歳児の男の子たちの仲間の「資格」は緑。緑色のものを持っていないと遊びに入ることができない。

 

無意識だからこそ難しい。おそらく自分自身でも意識していないんです。

 

 

「男の隠れ家」っていう響きがかっこいいですね

5歳児の男の子の緑、女の子たちの輪投げとコイン。それらの様子を見ながら4歳児の男の子たちが作る隠れ家の中には、コインや輪投げが大量に隠されています。

 

ちゃんとこの空間内で何が価値があるのかをわかっている。ここに価値があるものがあるのなら、後で必ずみんなが隠れ家にやってくることになる。

 

限りある資源の取り合い。これが自由遊びの特徴であり、醍醐味です。現実世界でも資源の奪い合いが争いの火種になりますが、遊びの世界も同じです。

 

 

赤ちゃんごっこ

輪投げ遊びも飽きてきた頃、前回のゆりかご遊びが始まりました。ただ揺れるだけの感覚遊びから、今回は赤ちゃんと世話をするお母さんのごっこ遊びに進化しています。

 

同じ遊びに見えて、前回と何か変わっている。遊びとはそういうものです。

 

 

落ち込みも体で表現

輪投げにも入れず、赤ちゃんごっこにも入れない。落ち込み、マットのすぐ下にうなだれています。どうすれば赤ちゃんの「資格」を得られるのか。コインの等価交換が理解できない子では、赤ちゃんごっこの複雑なルールが掴めない。

 

この子は考えるより体が動く子。だからこそ誰よりも早く優しい行動ができる。それをこのブログでもたくさん紹介してきました。ここに来て彼女は壁にぶつかっています。

 

つまり「思考」することが進化の条件。思いつきで動くだけではこの先の女子の世界では生きていけない。

 

だけど思考することで持ち味が消えてしまっています。考えることで動きが止まってしまう。周囲を見ることもできなくなっている。

 

がんばれ!私は応援しているよ!

 

 

5歳児が4歳児を押すという良くない状況

ちょうど、ゆりかごが空いたので、赤ちゃんとして話しかけて乗ろうとしたところ、無言でお母さん役の5歳児に押されてしまいました。入れてくれない。あの子は良くて、どうして私ではダメなの?それがわからない。

 

このシーンを見ていた保育士は「意地悪」だと感じたようです。私も最初はそう感じました。だけど、よく観察してみると何か理由があるのかもしれません。大人の理解を子どもが上回ることもある。自分の評価や理解力を過信しすぎず、様子を見ることにしましょう。

 

 

安心10秒チャージ

流石に落ち込み、保育士の元へ行き、髪を結び直してもらう。これは髪を結んで欲しいのではなく、「安心」をもらいに来たのです。「挑戦」するためには「安心」が必要だからです。

 

心の力を貯める。ここからまた現実に向き合っていくために。

 

 

ゆりかごは安心の場所

たまたま誰もいなくなったゆりかごに寝ることができました。そこへ別の5歳児が一緒に乗ってきました。笑い合う2人。この5歳児は元輪投げ屋さん。誰が良くて誰がダメという概念がない子です。そして空気を読む。4歳児の子が赤ちゃんをやりたがっていたことを見ていた。さっき、輪投げに入りたくて丸を献上していた子を指名した時もそうでしたが、こういうことができる子です。

 

こういう子のことをオープンマインドを持っていると言います。偏見や先入観がない。とても良いのですが、オープンマインドの子は孤独になりやすいという問題があります。関係を閉じるからその集団の中で所属の意識を感じて安心感を得るのが普通の人間ですが、オープンマインドの子は関係を閉じないから誰とでも繋がれる代わりに誰とも特別な関係を作りにくい。

 

そして、この2人はオープンマインドを持つ子同士。似たもの同士は惹かれ合う。

 

 

ごっこ遊びとは何か

そこに先程、赤ちゃんになることを許さずに入れてくれなかった5歳児女子が来ました。「ダメよ、2人で乗ったりしたら!危ないわよ」と2人の頭をポンポンしました。

 

なるほど!

そういうことだったのか。これを見て私は納得しました。

 

これは「赤ちゃんごっこ」で5歳児は「お母さん」を演じていたということだったんです。自分の子どもの赤ちゃん役はさっきから固定されている。つまり、「赤ちゃん」は誰でも良いわけじゃない。「お母さん」にとって「赤ちゃん」は1人。別の子が赤ちゃん役をやろうとしてもダメに決まっている。

 

現実世界で考えてみれば、我が子のベビーカーに赤の他人の子どもが乗り込んでこようとしたら止めますよね。それと同じだった。

 

意地悪ではなく、純粋に「お母さん」を演じていただけだった。遊びの世界に入り込んでいただけ。私たち大人の決めつけで評価してはいけなかったんですね。いやぁ、勉強になります。

 

ここでいう仲間に入るために必要な「資格」とは、「別のお母さん」と「別のゆりかご」だったんです!

 

 

母を訪ねて三千里

というわけで、赤のゆりかご、青のゆりかごで、それぞれ親子になって遊んでいます。関係を閉じるから「親子のごっこ」になる。関係を閉じないオープンマインドの子には理解できない遊び方だった。これは盲点でしたね。

 

赤ちゃん役をやりたければ別のお母さん役を見つければ良かったんです。単純な解決方法でした。

 

5歳児の子を一瞬でも意地悪だと思ってしまった自分を恥じることになりました。まだまだ遊びの理解が足りていませんでした。こういう自分の理解を超えてくる体験が、私を成長させてくれます。わからないことがあるから、勉強の余地があって面白い。

 

 

♯4 (4歳児と5歳児 第3回)

スタート前の緊張感

4歳児と5歳児の第3回。今度こそ、バランス遊具を左右に分けておき、5歳児が独占しないようにしてみます。これで遊びが変わるのか、変わらないのか。

 

 

左の5歳児は前回の輪投げ屋さんの真似

相変わらず滑り台のマットの上にみんなで座る遊びが人気。ただ、今回は4歳児のみです。遊びは上の学年が始めたものが時間と共に下の学年に落ちていく。

 

5歳児はもう飽きていて、次の遊びをしたがっているんです。

 

手前で4歳児が泣いていますが、マットの上に座れなかったのではなく、オレンジのマットを自分が使っていたのに他の子たちに奪われたという理由です。それを5歳児が聞き取り、取り返してあげていました。

 

 

私を意識するということは、私の想いを汲み取るということ

5歳児たちはみんなバラバラ。それぞれが「園長先生!」「見てて!」と私の視線を取り合います。

 

子どもの「見てて」は「安心」と「挑戦」が両方あるときに起こる。挑戦するから一部始終を見ていてほしい。一緒に喜んで欲しい。そういうことです。

 

ここから5歳児の挑戦が始まるのか?

逆に期待が高まりますね。

 

 

オープンマインドは孤独になる

「おもちゃを何も取れなかったー!」

 

左の子が何も持たずにウロウロ。だけど落ち込んでいる様子はない。実はこれ、「何も取れなかったごっこ」です。高度な遊びです。こんなの普通は気付きませんよね。

 

 

ゆりかごで原始的な喜びがもたらされる

それを聞いていた5歳児が一緒にゆりかごに乗せて遊ぶ。赤ちゃんとお母さんによるごっこ遊びではなく、現実の女の子として遊んでいます。揺れる感覚、落ちる感覚、触れ合う感覚、笑い合う仲良しの雰囲気。それらを感じ取る。最高の時間を過ごす2人。

 

ただし、最高すぎて誰も入れない。オープンマインドの子が閉じた関係を体験する。新感覚。今まで感じたことのない一体感。

 

お母さん役をしていた子のほうも、ごっこ遊びという「役」を演じなければ人と繋がれなかったけど、今は自分自身として遊べています。2人にとってそれぞれが足りないものを補う体験をしているんですね。

 

 

泣く解決以外も身につけてほしい

4歳児をまとめようとする5歳児のエメラルドグリーンの女の子。うまくまとめきれず、4歳児たちから不満が。意味不明のルールを押し付けられ泣き出す子。その間に入って解説する子。

 

ルールがおかしくても、そこから学べることもある。わからない方もそうだけど、ルールを決めた方も次から工夫する。そして、間に入った子もそれぞれの理解を踏まえて解説する力がつく。全員の成長になっています。

 

トラブルで人は学ぶ。

 

 

建築士たち

女の子たちの後ろでアトラクションを作っていく5歳児と4歳児の男の子たち。初回で遊園地を作った子が多いので、結構良いものができる。すると、みんなが集まってくる。

 

第1回で遊園地のアトラクションを作っていたから、それができればまたみんなやろうと思って集まってくるのは当然です。

 

 

さすらい

それが納得いかず、自分の作った作品を置いて別の新天地を求めて移動する5歳児。

 

自分の作ったものが人気になって集まってくるなんて素敵なことだと思うけど、当人からすれば、「そうじゃない」という理解や遊び方をされる体験になるんでしょう。

 

なんていうか、職人気質なんですよね。この子は。作った作品に誇りを持っている。自分なりのこだわりがある。頑固なラーメン屋とかこだわりのコーヒーを出す喫茶店のマスター的な感じでしょうか。

 

 

火事場泥棒

残されたアトラクションは群がった子たちによって破壊され、持ち去られていきます。

 

なるほど、これを見越して移動したのか。すごいな。

 

 

交渉は決裂

残骸となった大量のプラポイントの所有権はすでに4歳児の男の子に移っている。しかも年下が権利を主張していることから、5歳児である自分がわがままを言うのはおかしい。だけど使いたい。その葛藤に揺れている。

 

そして、諦めるという選択をしました。

 

 

葛藤と共に生きる

新しく1人で作った秘密基地に閉じこもる。壁の中で気持ちを落ち着かせています。不満や怒りを自分だけで解消できるのは大人になってきている証拠。八つ当たりはしない。かっこいいです。

 

 

第三者の介入による2人の領域の消滅

5歳児の男の子が暇そうにしていたので、ゆりかごを緑マットでグレードアップさせた上に乗せる。2人の世界で遊んでいた女の子たちの間に新しい赤ちゃん役の男の子が入ってきました。2人の世界は3人の世界へ。

 

女子2人の現実的な遊びが、3者によるごっこ遊びになった。これは遊びの根本から変わってしまったことを意味しています。

 

 

子どもが不安な時に大人はどうすべきか

自分がやりたかったのは赤ちゃんごっこではないので、遊びから離脱して私の後ろへ。先程女の子2人で濃密に過ごした楽しい時間を忘れられません。赤ちゃん返りしています。

 

それがわかっているので、しばらく私もこのままでいます。だけど、私から声かけたり、スキンシップしたりはしません。あくまでも受け身。何もしない。背中を貸すだけ。こちらが積極性を出すと、甘えが増大して遊びに戻れなくなる。

 

 

お母さんによるお迎え

「こんなところにいたのね。ダメよ。1人で帰れないでしょ。戻るわよ」と強制的に赤ちゃんにさせられ、お母さん役に連れて行かれる。だけど、嬉しそう。自分を必要としてくれたこと、迎えに来てくれたことが嬉しい。

 

これも私が引いたから起きたこと。私にくっついていることに居心地の良さを感じすぎたら私から離れられなくなっていたでしょう。不安な時だけくっつくことを認める。不安が和らいだら遊びへの世界へ送り出す。これが大事なのです。

 

 

優しさによる戦いごっこ

秘密基地に閉じこもった男の子を、5歳児の男の子たちが襲っています。1人で閉じこもっているところから出てきて一緒に遊ぼうよ、という願いが込められている。

 

さっきのお母さんとして赤ちゃんを連れ戻しにくるのもそうですが、みんな「ごっこ遊び」で本当の気持ちを表現しているんですよね。遊びの本質はごっこ遊び。真面目だと言いにくいことでも、ごっこの力を借りれば相手に伝えることができる。

 

 

まだ遊びを主導するには荷が重い

4歳児が所有権を主張したプラポイントのタワー。ここに人が集まってきて上に乗るという遊びが生まれている。

 

戸惑いながらも自分を中心に遊びが展開される感覚を味わう。今までは誰かの遊びにどうやって入るかという思考でしたが、自分が遊びの「資格」であるプラポイントタワーを所有しているという事実に戸惑っています。

 

どうしていいかわからず、その場から離れました。だんだんと学べば良いんです。今何でもできる必要なんてない。

 

 

必死な顔が面白い

追いかけっこに発展した5歳児の男の子たち。だんだん本気の走りに変わっていきます。カメラもブレブレです。これは怒っているわけじゃない。気持ちをぶつけ合っているんです。

 

 

開かれる2人の世界

5歳児女子の基地は絵本屋さんに変わりました。客を待つ店員さん2人。良い雰囲気で遊びを展開していきます。

 

基地は他者と自分たちの世界を分断するために存在していましたが、お店屋さんになったことで他者を受け入れる場に変化しています。これも、コインを交換するお店に一時期変化したことから生まれた展開です。

 

 

泣いているのは謝った側

ぶつかったことを謝ったのに許してくれない。この年齢によくあるトラブルです。そこに4歳児と5歳児の女子たちが集まってくる。5歳児女子たちは第1回で5歳児女子とだけ遊んでいたのに、ずいぶん関心が外に向かうようになりました。

 

 

ぐらぐらタワー

プラポイントタワーにマットを合わせてみんなで窓の外を見る遊び。園庭の砂場に0歳児と1歳児が見えている。

 

みんなで同じことをするから面白い。嬉しい。そして、不安定だから面白い。不安定なことを仲間と共有する。不安を仲間と共に乗り越える擬似体験の遊びになっています。

 

 

気持ちの切り替えが苦手

トラブルは5歳児が間に入って解決しているけど気持ちが収まらない。そこに寄り添う4歳児。

 

誰かの悲しみを放って置けない。「思考」を身につけても本質は変わらない。誰かのために体が勝手に動いてしまう、優しさは理屈じゃないんです。

 

 

優しいお母さんを演じる遊び

追いかけっこをしていたけど、こちらも気持ちが満たされない5歳児。お母さん役が男の子をゆりかごに乗せ、頭を撫でて慰めます。

 

お母さんごっこがしたいこの子には、落ち込んでいる癒すべき人がいることは好都合。ごっこの世界に引きずり込む。

 

頭を撫でられている方も、甘えたい気持ちが出てきているのでちょうど良い。利害が一致している。

 

 

お母さんは過保護

脱走した赤ちゃんも見つけて連れ戻す。抱っこされることに照れがある5歳児の男の子。

 

お母さんごっことしては、我が子が心配だからゆりかごに乗せておきたい。だけど、赤ちゃん役の子としては、もう他の遊びがしたい。興味が変わってきている。

 

前回、自分の赤ちゃんは1人だけで他の子を受け入れることはありませんでした。しかし、その時に拒否してしまった子の悲しみは感じ取っていた。だから、今日は赤ちゃんは2人に増えています。この子が前回の体験で学び取った証拠がここに出ています。

 

 

言葉による主張

絵本屋さんにやってくる4歳児。自分のタワーが窓の外を見る足場になっているため、やることがなくなっています。勇気を出して「入れて」と言えました。

 

最初は遊びの邪魔をすることで仲間になろうとしていた子です。仲間になるには「資格」がいることを理解し、丸を集めて渡したりしていました。物理的な物を献上することで、一緒に遊ぶところから、言葉で仲間に入りたいと言えるようになったのはすごい成長です。

 

 

許可を得るという手続き

「壊さないならいいよ」と許可を得ることが出来ました。

 

ここで仲間になるためには「壊さない」というルールを守ればいい。これこそが仲間になるための「資格」。

 

「資格」とは一緒に仲良く遊ぶための「ルール」です。「ルール」が理解できて共有できれば、物を「資格」にする必要がなくなるのです。

 

 

遊びが変化するということは「資格」が変化するということ

仲良く3人で絵本屋さんごっこをしています。隣ではお母さんが赤ちゃん2人の面倒を見ていますね。

 

部屋がごっこ遊びの雰囲気になってきました。そうなると一緒に遊ぶための「資格」は演じることになっていくのかもしれません。

 

 

アトラクション作りの4歳児の男の子たち

1人目の赤ちゃんは遊びたいのでゆりかごから脱走し、4歳児の男の子たちのところへ。

 

赤ちゃんごっこというのはやることがない。無力化することで世話をされることを楽しむもの。外の世界に興味を持った赤ちゃんは、赤ちゃんではなくなるのです。今、巣立ちの時。

 

 

鼻をつまんで声色を変える

もう1人の赤ちゃん。

 

「こんこん、絵本屋さん、開いてますか?」

 

言葉も喋っているので、もう赤ちゃんじゃないですね。こちらも巣立ちの時。演じることで「資格」を得て、仲間になる。

 

 

お母さんの黄昏

赤ちゃんが2人とも巣立ち、やることがなくなったお母さん。寂しそうですが、現実のお母さんもこういう感じかもしれませんね。子育てが終わったお母さんは自分の人生を生きて行かなければなりません。

 

 

あいかわらずカッコイイですわ

まだ泣いている女の子。優しく触れながら「どうしたの?何があったの?」と尋ねる。やっぱり振る舞いがイケメンですね。女子からしたら100点の対応じゃないですか?おじさんの私にはわからないけど、多分そうですよね?

 

 

会話による救済

続々と集まる4歳児の仲間たち。初回で人魚姫ごっこで受け入れた女の子が話を聴いてくれています。泣くという行動ではなく、言葉による表現へと移行させています。年齢相応の解決策を身につけていく練習になっている。

 

そして絵本屋さんに就職したはずの男の子も集まっている。なぜか頭を撫でられているけど。

 

 

みんなで解決していくんだ、僕たちは

自分がされた優しい行動。頭を撫でられた子は、泣いている子の頭を撫でる。優しさが連鎖していく。流石は七夕まつりのプロジェクトで感動を生んだ4歳児クラスの子どもたちですね。

 

こうして、各自の成長を感じた回となりました!

 

 

 

以上、4歳児と5歳児の第2回と第3回の様子をお届けしました。

 

第1回とは全然違いますね。輪投げ屋さん、赤ちゃんごっこを中心に展開していきましたが、回を重ねるごとに遊びに入り混んで関係が変化していく様子がわかると思います。

 

その日だけとか単発の遊びの場合は、遊びにのめり込むまでに時間がかかるのですが、連続する遊びの設定だと、前回の遊びからの続きになっていたりして、のめり込むのが早くなる。だから遊びが展開しやすいので学びも多くなります。

 

そして異年齢だからこその場面も見られました。5歳児が4歳児の気持ちを汲むとか、言葉による解決を5歳児が提案するとか。異年齢だからこそ、能力が違うからこそ生まれる展開が起こります。

 

そもそも、同じ学年と言っても4月生まれと3月生まれでは一年近く差がある。どこで区切るのかの違いです。5歳児の3月生まれと4歳児の4月生まれの差は数日。

 

学年ごとが良いのか、縦割りが良いのかという極端な論争になってはいけない。能力差がある子どもたちが全員学びになる時間になれば良いだけです。そういう環境を保育士が作れば良いんです。

 

そして、学びになる時間にするコツのようなものを、このブログで発信しているのです。