こどもの日プロジェクトも最終回となりました。「子どもらしく自由に遊びながら、ルールは守る」ことを目指す自由遊び型の環境設定の中で、それぞれの物語が一つに収束していきます。最後に何が起きるのか、皆さんも一緒に体験してください。
♯4

嵐の前の静けさ
最終日だということは子どもたちには伝えていません。保育士側にも一応の最終回のつもりだけど、不完全燃焼になれば次の週にも行うことは伝えてあります。子どもの世界で何が起こるかは、やってみないとわからないので柔軟に考えておきます。
だけど今日は何かが起こる予感。始まる前に私から保育士に話をしてありました。
「今日は何か起こると思います。」
そして、その予感は現実のものとなるのです。

環境の変更のタイミング
基本的に前回と同じ環境設定ですが一つだけ変えてあります。それはプールを一つ追加したということです。それも大きいプールを。
前回、3歳児クラスと4歳児クラスそれぞれでヤドカリとして活用していたプールですが、もう一つあれば遊びが広がると思って用意してあったんです。だけど、前回は途中で投入すると遊びの流れを邪魔すると思ったのでタイミングを見ていて出せなかった。
だから今日は最初から出しておくことにしました。
案の定、みんなが大きいプールに群がります。

遊びの世界と現実の世界
今日も激しくボールをぶつける遊びをする4歳児と5歳児の男の子たち。
ボールをぶつけられた子が振り返って言いました。
「ぼく、入ってないよ。ボールぶつけないで」
真顔で「NO!」を意思表明する。遊びは相手とイメージを共有している場合に成り立ちます。この子は遊びから降りて現実世界の自分で拒否しています。
このように「遊びの世界」と「現実の世界」を行き来できるスキルが大事なんです。「遊びの世界」だけで生きている子は、ずっとふざけている雰囲気になる。全てが遊びになってしまう。だからちゃんとやらなくちゃいけない場面で楽しさを優先するからルールを守れなくなる。
5歳児くらいになれば、「遊びの世界」と「現実の世界」を使い分ける事ができるようになってきます。
言われた方も急に「現実の世界」に直面化させられることになる。自分がやったのは遊びではなく暴力になるということを理解する。こういうところにも子ども同士の対話が隠されているんです。

動きが早すぎてピントが合わない
前回、3歳児たちがプールのへりに座ってぴょんぴょんするという遊びを行っていましたが、それを今日は3クラス混ざり合って行っています。
5歳児の女子が多いですね。姉もいます。
年齢が高い女子たちが感覚遊びに夢中になるということは、頭で考えないで感覚で動き出すだろうということです。今日は今までよりも心が解放されて、子どもらしい振る舞いになるはずです。
こどもの日としてふさわしい展開になりそうです。もちろん、それを狙って大きいプールを出しています。

嫉妬 その1
3歳児たちのヤドカリを持ち上げる5歳児の男の子。
みんなは一緒に遊んでいるけど、僕は1人で遊んでいる。その事実に心がチクっとなる。

嫉妬 その2
同じようにお店をしている女の子の方にはお客さんが集まるのに、自分のお店には誰も来ない。
それもまた、自分の孤独さを感じずにはいられない。

嫉妬 その3
だから楽しく遊んでいた3歳児たちのプールが自分のお店に近づいてきた時に、大きな声で反抗することになる。
せめて自分の遊びの邪魔はされたくない。僕は1人でも遊べるんだ。
プールを力づくで押し返しています。

一緒にふざけるのは良い仲間の証拠
毎回不安が強くて壁にくっついていた3歳児の女の子は、毎回声をかけてくれていた4歳児の男の子と最初からお店を経営し始めました。
最初からというのが良いですね。同じ環境設定だからこそ、子どもの変化や成長が分かりやすい。前回とここが違う、というのが成長として見えやすい。

巻き込まれ事故
やはり激しくボールをぶつけ合う。
プールの中にいる子は別の遊びをしているのに、周囲でボールが飛び交うので、ぶつけ合いに参加したくないのに巻き込まれています。
普通は「やめて」とか「痛い」とか自分の想いを表明するところです。しかし、遊びの世界にいる子どもは現実の自分として反応しない。喧嘩にならずに遊びで対応しようとするからです。

こいのぼりの中に入る遊び
ボールをぶつけ合う遊びが嫌だから、投げている人を巨大こいのぼりの中に閉じ込める遊びに移行しました。こういう展開になるわけです。これが遊びの世界の解決方法。現実の自分と分けている。
ボールを投げる遊びは関係ない人にボールをぶつけてしまう可能性があるので、こっちの方が遊びとしては関係性がスッキリまとまっています。
こいのぼりの中に入るということは「生まれ変わり」を予感させます。こいのぼりは変化の象徴でしたね。進化の兆しです。

遊びの交わり
三つのプールが徐々に近づく。遊びがまとまっていく。
そして、お店を邪魔されて壊された男の子が「きゃー!!!」と甲高い声を出しています。部屋が静まり返り、みんなが一斉に彼を見る。
そしてすぐにそれぞれが自分の遊びに戻る。
本気で悲しんでいる声であればみんな優しいから集まってきたでしょう。しかし、この声はそういう声じゃない。みんなよくわかっている。注目を集めるための大声には誰も反応しません。

1人で解決する体験
大声を出しても誰も来てくれない。子どもたちも保育士も助けてくれない。
だから距離を取る。壊されないように。それが1人で考え出した結論のようです。
子どもが「パニックになる」とか言うことがありますが、ほとんどパニックということはないです。大体が「パニック風のメッセージ(コミュニケーションの一種)」です。今回もそれですね。大人が反応しない方が良い。ここで「どうしたの?」とか保育士が声をかけると、「この行動で大人を動かすことに成功した」という体験がインプットされて次からも大声を出すようになる。不適切な注目の引きつけ方には反応しないのが一番です。
集団が育ってくると保育士が何か直接的に声掛けをしなくても、子どもたちが育ち合うようになります。

4歳児が事の成り行きを見守っていますね
女の子が欲しがっているものを横取りし、取られないように高いところへ持ち上げる。何度かそのやりとりが続きました。
他の子が欲しがっているものを自分が使いたがる。小さい子によくある現象ですね。
「仲良く使おうね」とか「貸してって言うんだよ」とか、保育園でよくある対応はもちろんしません。
理由は明確です。

失敗から学ぶ毎日
女の子たちはいなくなってしまいました。意地悪をすると誰も遊んでくれなくなるという気付き。保育士が色々言うよりも、そういう体験をしたほうが深い学びになる。失敗から学ぶ。
そして1人になった男の子に自分を重ねる左の子。プールに手をやり、寄り添おうとしています。結局は一緒に遊びませんでしたが、孤独を共有する体験になっています。
物を独り占めすると人がいなくなるという姿を見ることが、観察学習になっています。つまり、失敗の擬似体験ですね。

純粋さという個性
「どうしたの?」と1人で遊んでいる子に声をかける子が出てくる。
完全に1人にならないんですよね。必ず誰かが来てくれる。それがあるから私たち保育士が助けに入らないし、安心して「みんなが離れていく」という体験をさせる事ができるんです。
本当に辛い想いをしている時にはもちろん助けに入りますが、一時的な慰めより、深い学びによる成長をさせることを優先しています。成長して次からできるようにするほうが、結局は「優しさ」なんじゃないかと思うんです。助けることは必ずしも「優しさ」ではないんです。

何度だってやり直せば良い
そして時間をおいて集まる3歳児クラスの仲間たち。さっき嫌になって離れた女の子たちも戻ってきました。嬉しそうな男の子の表情。
仲間の絆は壊れない。
嫌われてしまうんじゃないかと心配する必要はないんです。うちの子達はそんな子達じゃない。意地悪な行動は嫌いでも、その子自身を嫌う子はいない。むしろ、大人の方が履き違えているような気がします。
罪を憎んで人を憎まず。行動と人間の評価は全く異なるものです。
失敗も同じです。「失敗した行動」と「失敗した自分」は切り離して考える。何度失敗しようが、その人間の価値は下がらないんです。
人は何度だってやり直せる。諦めない限り。
子どもが私たちに大切なことを教えてくれています。

電車が走りまーす
前回から起きているバランスボードを電車に見立てた遊び。今日は3人で行っています。もう他者を拒むことはない。姉に頼ることもない。
みんなで遊ぶのが楽しい。楽しい時、人は不安が吹き飛んでいます。遊び込む時、子どもは子どもの世界に入ります。子どもの世界に大人は必要ありません。
子どもの世界はなんでもできる。可能性に満ち溢れている。子どもの世界での経験は、現実の世界に影響を与えます。

中央の3歳児の女の子の笑顔
あまり集団で遊ばない子も、この遊びならみんなで楽しさを分かち合える。言葉やスキルがいらない「感覚遊び」なら、大人から赤ちゃんまで、心を一つにできるからです。
大人が海岸へ行って、砂浜で裸足になって水を掛け合う。恋人同士のよくある風景みたいに扱われるシチュエーションですが、あれも感覚遊びですね。最も原始的な部分(感覚)を共有する事で親密さを生み出すんです。

進化する男の子たち
赤い台の滑り止めを外して銃を作る。
ボールをぶつけるという直接的な感覚遊びから、銃を見立ててやり取りするごっこ遊びへ。男の子たちがついに進化しました。
鯉から竜へ。コイキングからギャラドスへ。
遊びは次のステージへ。これで誰かが痛い思いをする事がなくなるはず。

引きの画も撮るのを忘れない
部屋の全体像はこんな感じ。いくつかのお店とプール、巨大こいのぼり。みんなどこかには所属していて、相互に関わり合うような関係になっています。
集団としても進化しているという事です。
最終回らしくなってきましたね。

変化に気がつく目を持とう
第4回にもなれば、1人で遊びたいという子が出てこない。なぜなら、おもちゃの設定が同じだから、すでに1人でやれる遊びはやり尽くしている。
飽きてからが本番。飽きることで工夫が生まれ、他の人との関わりが生まれる。
遊びの広がり&深まりをじっと待てるのも保育士には大切なスキル。飽きてから輝くのか、飽きたまま終わるのかは、やはり環境の設定によります。普通に同じ遊びをしていても飽きるだけで終わることも多いからです。
今回で言えば、大きいプールを出したことで全体の雰囲気が変化し、人が程よく分散し、飽きを解消しているのでしょう。

今までの流れを思い出しましょうか
第2回でずっとヤドカリに入り、第3回で2人の世界を作っていた左の4歳児。十分に人間関係が満たされたから、第4回では誰とでも遊べるようになっています。そして閉じこもる遊びに飽きたから、走って逃げる遊びをしたくなっている。これまでの遊びがあっての、今日の遊び方なんです。
巨大こいのぼりで女の子を捕まえるという遊びが始まりました。

巨大こいのぼりの覚醒
学年を超えて協力する子どもたち。巨大こいのぼりを持って逃げた子を追いかけます。
こいのぼりが広がり(視覚)、大きな声を出して逃げる(聴覚)ことで、部屋中でこの遊びが注目されることになりました。そして、みんながこの遊びに引っ張られていくことになります。
つまり、追いかけっこが始まる!

逃げる人、追いかける人
巨大こいのぼりじゃなくても、追いかけっこを始める子が出てきました。こいのぼりの追いかけっこを見て、自分たちもやりたくなっているんです。青いボールはもう関係ない。小さいこいのぼりを持って逃げたり追いかける。
こいのぼりは、変化の象徴。進化の兆し。そして、仲間の印。

追いかける人、逃げる人
追いかける側と逃げる側の役割が入れ替わっています。前回までの男の子たちはかなり一方的な「ボールを投げる人」「投げられる人」の関係性の中でやることが多かった印象ですが、今日は役割の交代が普通に起きています。関係が対等になっているということです。

銃は人を変える
こちらもボールを捨てて、銃に見立てた赤い台の滑り止めを持って追いかける。泥棒と警察ということらしいです。ごっこ遊びに進化しています。
「柔らかいボールとはいえ、ぶつけるのは良くない」という学びが各自にあり、そのために遊び方を変えているのでしょう。
ボールをぶつけたかったわけじゃなく、激しいやり取りをしたかっただけ。ごっこ遊びができている時点で相手とイメージを共有しています。心の中で「繋がっている」ため、激しいやりとりで心を満たす必要がなくなっている。相手と繋がっている感覚というのは安心を作り出します。だから遊びがさらに深まる事ができるのです。

同じミスを繰り返す
追いかけっこをして捕まえたらこいのぼりで叩く(こいのぼりはペラペラなので痛いということはない)。お互いにそのルールでやっていたはずが、持ち手の部分で叩いてしまったようです。第3回のラストでも、叩いてしまって「ごめんね」をしていた2人。前回と全く同じ失敗をしてしまっています。
「失敗で学ばせると言っても、何度繰り返しても成長がない場合どうすれば良いのでしょうか?」という質問を保育士や教師から受ける事があります。
今回のこともそうですが、何度も繰り返しながら成長が見られない場合というのは、それなりに起こります。ですから、皆さんの疑問は理解できます。
その答えはこのあと出てきますので、少し進めていきましょう。

この子も純粋さを持っている
4歳児の女の子が孤独にお店を開いていた5歳児の男の子のところへ。
「入れて」と言ってお店を一緒に作っていきます。
第3回で一緒にお店を共同経営していたうちの1人です。すんなりと受け入れます。過去の体験が今を作っていく。
過去の失敗から学ぶのもあるけど成功体験も学びです。子どもの育ちには成功も失敗も両方必要だってことですね。

被害者側の反応により学びが変化する
「ごめんね」とまた言っています。前回と同じ。だけど、前回も今回も、右の子は許していない。返事をしないという態度で「NO!」を表現しているわけです。
しかし、これはやってしまった側からするとわかりにくい。泣いているわけでもないし、反撃してくるわけでもないから、自分がやってしまったことにマイナスの結果が感じられない。
ちょっと前に出てきた3歳児みたいに「意地悪をしたらみんないなくなった」というレベルだとわかりやすいから学びになる。だけどやられたほうが反応しないという表現では、やってしまった子に後悔させるとかハッとさせるようなインパクトがない。結果、学びになりにくいから同じ失敗が繰り返される。
行動の後の結果がどうなのか。これが学びには重要な要素です。行動の結果、何を得たのかによる。孤独を得たとか、反撃を受けたとか、自分の行動がもたらした結果がその子の学びに直結する。
だから、叩かれた子は反応が薄くて周囲を成長させにくいので繰り返し同じことが起こりやすい。
リアクションが薄いというのは損なんです。

作戦会議
何も学びがないまま、4歳児と一部の5歳児の男の子たちが集合します。バラバラに追いかけっこをしていた子達が、一つの遊びになろうとしているのです。
なんとなくのルールの確認。
コインは泥棒が盗んだもの。ボールはぶつけるもの。銃は警察が持つもの。
はっきりと確認するわけじゃないけど、なんとなくルールを共有していきます。前回まではこういう会議はなかった。やりたいからやっていただけ。だけど今回は明確に同じルールにしようという意図が出てきている。
遊び方が成長しています。

歴史は繰り返す
一緒にお店をやっていた4歳児の男の子が追いかけっこに行ってしまったので、また部屋のすみっこに行く3歳児の女の子。
部屋の中の遊びもまた激しくなってきて、不安も増えやすい状況です。今までサポートしてくれた4歳児の男の子たちは全員追いかけっこに入っています。
これまでの状況から考えると、もう誰も助けには来ない。

2度あることは3度ある
強くボールを顔にぶつけてしまい、相手が泣いています。
前回もさっきも相手のリアクションが薄いことでいまいち自分のやったことの重大さがわからなかった4歳児ですが、今回5歳児を泣かせてしまったことで大きなインパクトを受けています。
泣いている5歳児から静かな怒りも感じるし、謝っても泣き続けるし、どうしていいかわからない。
ここにきて、これまでの失敗と結びつき、自分の遊び方について深く考えるきっかけになってきているようです。
これがさっきの答えです。同じ失敗を繰り返す子をどうすればいいのか。正解はこれまでの失敗と結びつくような別の失敗体験をさせること。そして、それを結びつけて考えるきっかけを与えること。
毎回カレー作りを失敗している人が、野菜炒めでも失敗するとします。そうすると、料理そのものが下手なんじゃないかと考え始めるきっかけが生まれる。同じ種類の別の失敗は、そのジャンルそのものについて考えるきっかけになるからです。

優しさの連鎖
4歳児は来ない。だけど3歳児の仲間が来てくれた。「一緒に運ぼう」と声をかけてくれて、一緒におもちゃを運んで引っ越しをする。
前回、転んで魚をぶちまけて拾ってあげた事がありました。その相手が今日は自分を助けに来てくれたのです。
繋がっている。繋がっているんですよ、体験で。だから、優しさは優しさを生む。昨日の自分のしたことは、今日の自分に回り回って返ってくる。
誰かのためにしたことは、自分のためになっていく。なんて素敵な関係なんでしょう。

心の対話
2人は無言で向き合う。話し合うわけじゃないけど、心は繋がっている。痛かったという想いも伝わっているし、逆に反省も伝わっている。ごめんねを言わなくてもすでに許している。
後はきっかけだけ。復活には、きっかけが必要です。

いよいよクライマックスへ
5歳児の女子も巻き込んで、部屋全体の追いかけっこに発展していきます。
ボールでぶつけるという遊びは完全になくなりました。さっき、強くぶつけて泣いてしまった子の様子をみんな知っているからです。1人の失敗が、全員の学びになっている。
これが環境で学ぶということ。子ども同士で育ち合うということ。
どうでしょう?だんだんわかってきましたか?

悩み抜いた後の笑顔
媚びるように謝るのではなく、笑顔で遊びに誘う。その場を取り繕うのではなく、君と遊びたいという意志を示す。
十分に反省して出した答えは、安全に遊ぶこと。ボールをぶつけないで、心をぶつけること。平均台を一緒に持つことをお願いしています。協力するという繋がり方を見つけました。

歴史は繰り返す その2
3歳児の遊びが盛り上がり、またしてもプールが自分のお店の上にぶつかってくる。前半と全く同じ展開。ここでどういう対応をするかで、前半でこの子が何を学んだかがわかる。
さぁ、どうなる?
過度に反応するのでもなく、自分の体で最低限守るだけ。押し返したり、大声を出したり、泣いたりはしない。
完全に学んでいますね。前半と同じことにはなりませんでした。あのとき、保育士が関わらなくて良かった。この子を信じて良かった。
一緒にお店を経営してくれた4歳児の女の子のおかげで、孤独ではなくなったからです。孤独と嫉妬で反応していたわけですから、満たされれば過度に反応しなくなるのも当然です。一緒に遊んでくれる子がいるだけで、成長が促されるんです。

遊びで解消する
ボールをぶつけられた子は、ぶつけた子に反撃することもなく、普通に追いかけっこに戻りました。顔を真っ赤にして一心不乱に追いかける。遊びに集中することで、心のモヤモヤを解消しようとしているようです。
ちゃんと銃を持ってる。ボールは使わない。だけど身体全部でぶつかっていく。身体を使って逃げるのを阻止しています。そのほうが気持ちを発散できるからです。

平和主義者たち
手前にいるのは追いかけっこに入らない5歳児2人。平和に遊ぶことを好む。それも正解です。
そして奥にいるのは、さっき一緒に魚を運んで引っ越した3歳児2人ですね。
絶対に全員で同じ遊びをすることが正しいわけじゃない。これで良いんです。本当に同じことをしたくなったらすれば良い。無理やり同じ遊びをさせるのは違います。

姉と弟
3歳児たちはヤドカリの引っ越し中。弟は座って作業をしている姉に何も反応しません。今日は一度も交わらない2人。
不安はない。
一緒に遊んでくれる友達が、仲間が、そばにいる。

いらっしゃいませ、銃はいらんかね
赤い台を使ったお店には大量の銃が。みんなここでコインと引き換えに銃を購入していきます。武器商人。自分は表舞台には立ちませんが他の子の遊びに影響を与えています。
これで部屋中に、銃がばら撒かれることになりました。

はいどうぞ
泣いている子の水筒を見つけて、渡す3歳児。みんなが遊びに夢中になって気が付かない中で、この子だけが反応している。
夢中になると視野が狭くなる。だから、「遊びの世界」と「現実の世界」を行き来できる人が集団には必要になる。3歳児にもそれができる子が現れました。

銃は自由の象徴
「バーン!」と誰彼かまわず打ちまくる。「入ってこないで」と他者を拒絶していた姉が仲間と一緒に外の世界に目を向ける。銃を持って。
生きるためには強さも必要なんです。保育士や母親に守ってもらうだけじゃなく、自分で自分を守りながら生きていく。外界を拒絶するのではなく、立ち向かっていく。
新しい自分になっていく。

カウンター
銃社会となったみんなの遊び。いつの間にかそれが共通のイメージになって遊んでいます。
弟は銃を拾っては赤い台に戻していく遊びを始めました。平和を望む弟。もう誰かに守ってもらう必要も、誰かを傷つける必要もない。
自分には信頼できるクラスの仲間がいるのだから。

平和を望む声
時を同じくして、3歳児たちが銃を赤い台に戻していく様子が見られました。
誰も何も言っていない。だけど同じようなことをしている。偶然にしては出来すぎています。
心がつながっているのです。

回帰
武器を売っていた子まで、赤い台に銃を戻しています。
争いはもう終わり。みんながそれを望んでいるのかもしれません。
最終回ってすごい。毎回プロジェクトをやるたびに思います。最初から決められたシナリオがあったかのように、伏線を回収しながら進んでいきます。

かくれんぼ
追いかけっこをしていた子も、隠れるという遊び方に変わっています。つまり、鬼ごっこがかくれんぼに変わったということです。
どんどん平和的な遊びにシフトしている。
自分のお店が隠れるために使われることも了解しています。受け入れる気持ちが育っている。お店とかくれんぼ遊びが重なり、一つになる。

すれ違い
「何が入っているの?」と聞いているだけなのに、青い箱を取られると思って隠す男の子。
会話で楽しむという体験が乏しいので、物を集める遊びだと勘違いしてしまう。だから、興味を持たれたら「取られる」と思ってしまう。状況の理解は過去の体験から作られるからです。
だからこういう時に保育士が言葉で「〇〇君は一緒に遊びたかったんだよ」と言ってもダメなんです。その子自身がどう体験に落とし込むかを考えて対応しないと、深い学びにならないんです。

力で解決するというのも過去の体験から
しかもこうやって「押す」という行動で自分の嫌な気持ちを表現するのであれば、なおさら大人が言葉で物事を教えるのは難しい。
過去の行動パターンで問題解決しようとするのが普通です。第一選択で別の方法をやってみようということにはなかなかならない。だから、不適切な行動を人は取り続けてしまう傾向にある。そして失敗して落ち込む。この繰り返しの連鎖から、どう抜け出すのか。
人の成長というのは、過去の自分からの脱却なのです。

コインの使い道
かくれんぼで見つかった後、コインを配っています。コインを盗んだ泥棒を警察が追いかけるという設定の遊びだったので、コインを返せば追いかけられる理由がなくなる。
争うことなく、追いかけっこを終わらせる方法を取っています。
それぞれの物語は「平和的解決」という収束に向かっている。

押すという原始的な想いの伝え方
カードを取られると思って嫌だった想いをプールの上から「押す」ことで表現する。関係ない女の子まで一緒に巻き込む形になってしまいました。
押し潰される2人。
だけど聞こえてくるのは笑い声。
2人はこのシチュエーションを楽しんでいます。

捉え方を変えるという対処法
プールの上から押されたけど、一緒に挟まって面白かった。2人はそれを楽しんでいます。押した子にネガティブなイメージを抱いていない。むしろ、もっとやってほしいと思っている。
遊びの力ってすごい。どんな想いもポジティブな方向へ変えてくれる。
4歳児の遊びもそうですが、誰も反撃していないんですよね。それぞれがうまく消化して、なんなら前向きに変換して処理しています。
物事は「捉え方次第」です。ポジティブに受け取れる人が人生を楽しめるんですよね。

休憩は遊びか現実か
「捕まえた!」
「今やってないよ」
男の子は追いかけっこをしていると思っているから捕まえている。
女の子は水分補給の休憩をしているから追いかけっこから一時的に外れていると思っている。
これが「遊びの世界」と「現実の世界」を分けているかどうかの差、ということです。

みんなのお店に戻っていく
銃を売るのは終わりにして、また2人で共同経営し始める。結局は1人で遊ぶより、誰かと遊んだほうが楽しい。
その結論に戻っていきました。

戦いの後に残るもの
コインを警察に返した後、戦いは終わったことを仲間に告げる。
それぞれが銃を下ろし、みんな時代の変化を感じているようです。
戦いは、戦争は終わったのだと。
新しい時代がやってくる足音が聞こえる。

自転車に乗って
「自転車に乗ってくださーい」
戦いが終わり、自転車に乗ってピクニックに出かける3人。
その手に、もう銃はない。釣り糸の切れた釣り竿があるだけ。つまり、釣ることが目的じゃないってこと。
みんなで同じ時間を過ごしたい。ただ、それだけ。
みなさん気付いていますか?
今日は一度も担任のところへ行っていない。
あんなに何度も抱きしめてもらっていたのに。
この4回の遊びが、体験が子どもを変えていく。
大人に抱きしめてもらわなくても不安を仲間と一緒に乗り越えることができているのです。

大人はなんのために存在するのか
私たちは子どもたちの未来を作っている。
何ができたとか、できなかったとか、そういうことじゃなく。
誰かより優れているとか、劣っているとか、そういうことでもない。
迷惑をかけたとか、役に立っているとか、そういうのも関係ない。
子どもたち1人ひとりの素晴らしさは、誰かとの比較じゃ表せない。
一人ひとりが子どもらしく笑っていられる社会を作りたい。
私たち保育士は、子どもの幸せを第一に願い、そのために努力する大人でありたい。
この子が仲間に安心しきっている表情を見てそんなことを思いました。
繰り返し保育士にもらった「安心」のおかげで、仲間と心を通わせるという「挑戦」ができた。子どもだけの遊びの世界では、こういう結末にはなっていません。ただの見守るだけの保育をしたわけではなく、保育士の強い願いや愛が子どもの変化を促したのです。だから、今日は抱きしめてもらうという直接的な安心をもらう必要がなくなった。抱きしめてもらわなくても、自分が愛されているという確信を得ることができたのです。
保育士は何もしていないようで、子どもたちとたくさん心の交流をしています。目に見えないし、聞こえてくるわけでも触れてもいない。だけど、確かに私たちは繋がっていました。
温かい雰囲気が部屋を包み込む。
そして、最後の片付けの時間がやってきます。自由遊びでコントロールが外れた子どもたちは片付けをするという行動を取れるのか。
ここからが、この4日間の集大成。成長を感じるのはここからです。

導き、導かれる関係
やっぱりブルーシートの上に乗ったり、下に潜り込む。だけど今までとは違う。
「行こう!こっちだよ!」
女の子の呼びかけで、潜っていた3歳児たちが一斉にブルーシートから飛び出します。

駆け出す仲間たち
潜ってるより、仲間と走るほうが楽しい。そうだよ。そうに決まってる。ブルーシートに潜ったり上に乗って他の子どもたちから「降りて!」と指摘されるより、適切な行動を選択するという喜びを感じてほしい。
仲間と一緒に、自分の力で外に出ることができました。

恒常性という悪魔
だけどまた乗ってしまう。特に乗りたかったわけじゃないんですよね。毎回乗っていたから、習慣化されてしまっているんです。人は同じことを繰り返す。恒常性というやつです。人は同じことを繰り返すことに安心を感じる生き物なのです。
それが不適切な行動であっても、同じことをしてしまう。
人は過去の体験に縛られて生きている。
だから、もっとも難しいことは過去の自分を乗り越えることだと私は思っています。
前回、5歳児に抱きしめてもらって自分の力で復活した4歳児の女の子。今度は私の番とばかりに3歳児の弟に寄り添う。
そして、ブルーシートの外へ一緒に出ることに成功します。
もし過去の体験に縛られて私たちが生きているとしたら、良い体験で過去を未来に塗り替えてしまえば良いだけ。未来を変えるのは「今」です。この子のように過去の自分を乗り越えていくしかない。
今、この瞬間の体験が、子どもたちの未来を作っていく。

言葉の壁
最後に残った3歳児。みんなから出るように言われて、暴れてしまう。無表情になって手も足も出る。それでも諦めない周囲の子どもたち。
みんながブルーシートを持っているから、壁みたいになって外に出られないんです。もし言葉を話せたら「通して」とか「出たい」とか言えるから、みんなも道を作れる。だけど、うまく喋れないから暴れるしかない。周囲の子どもたちもそこまで状況を理解して対応できるはずもない。
今の子どもたちの力では、この環境を打破できない・・・!
私はそう判断し、4歳児と3歳児はお茶を飲むよう指示を出します。5歳児だけでまずはやってみることにする。3クラスだとブルーシートの周囲を全部覆うように人が持つので壁ができて出られない。5歳児だけにすれば人数が減って壁がなくなるからブルーシートの外に出るスペースができて出られるかもしれない。
こういう判断が保育士には必要です。うまくいかない状況で子どもにやらせようとしても、失敗体験を重ねるだけになる。それでは、何も変わらない。何も生み出さない。子どもに責任を丸投げするのではなく、保育士も大事なところで判断することで、一緒に現実に立ち向かうのです。
子どもと一緒に乗り越える。
保育士が何もしない保育は、間違っています。

孤独が最も人を狂わせる
だけど、暴れるもんだから、みんな遠くへ逃げてしまう。
自分からみんなが離れていくという意味を認識する。自分が叩いたり、蹴ったりするから人が離れていく。自分のせいで今の状況を生み出していることも理解する。
その瞬間、崩れ落ちるように泣き出しました。
みんな僕のことを好きじゃないから離れるんだ・・・。そういう表情に見える。

逃げてごめんね
その顔を見て戻ってくる5歳児たち。
「大丈夫だよ」
「怖くないよ」
「何もしないからね」
恐怖を感じて暴れていることを、子どもたちはよくわかっている。まず、安心させようとしています。ゆっくり、ゆっくり近づいていく。
誰1人として、この男の子が悪いなんて思っていない。
できる限りの優しい笑顔と雰囲気で近づいていく。

目線も下げて安心させる
優しい雰囲気はわかるけど、お兄さんお姉さんが10人以上近づいてくるのは怖い光景に映るのでしょう。
「ママー!」と泣き出してしまいました。
「ママに会いたくなっちゃったの?」
「そうだよね」
「大丈夫だよ」
その想いに共感する5歳児たち。
みんな不安が高まれば、保護者に、多くの場合は母親に会いたくなるもの。
みんな「母親に会いたいのに会えない」という気持ちをそれぞれ経験しています。
男の子の悲しみや不安に、それぞれが共感していく。

子どもたちで解決ができるのか
それでも近づくと恐怖から蹴ったり、叩いたりしてしまう。
「危ないよ!離れて!」と仲間を庇う子。
「大丈夫。」と動じないで向き合おうとする子。
遠くからどうすればいいか考え込む子。
それぞれが考え、男の子に向き合う形を模索する。
男の子に拒絶されても拒絶されても、諦めずに向かっていく5歳児たち。
不安で外界を拒絶する姿は、姉弟や4歳児でも見られていた光景です。今までは拒絶された側が引いてしまっていた。だけど、今回5歳児たちは諦めずに向かっています。5歳児同士がお互いに安心感を与え合っているからです。1人では立ち向かえないことも、仲間と一緒なら立ち向かえる。

何度でも何度でも
叩いたり蹴るといっても、かなり手加減しているのがわかります。それがわかるから、5歳児たちは男の子のそばに寄り添う姿勢を崩さない。でも無理には近づかない。
拒絶する姿勢や行動は本心ではない。目に見えるものが真実とは限らない。きっと、この子は近くに来て欲しいと思っているはず。
ゆっくりと、ゆっくりと時間をかけて、心に触れていく。
特に中央で座っている女の子。絶対に男の子のそばを離れない。その意志は優しく、そして強い。全く引かないその姿に、他の5歳児たちが感化されていく。

アプローチの仕方は様々
先ほど遠くに逃げたと思っていた子たち。実はティッシュを取りに行っていたようです。男の子の涙を優しく拭う。
嫌がらず受け入れる男の子。
言葉で理解し合うのが難しいのなら、行動と態度で示す。そう。それしかない。よくわかってる。そして、これは前回、成功したやり方です。前回の最後でもティッシュで涙を拭うシーンがありました。前回の体験があるから、今のこの子たちがある。経験は無駄にはならない。積み重なっていく。
だけど前回は最後に保育士が抱っこで連れ出してしまった。今度は、今度こそは子どもたちの解決を見てみたい。
きっと、できる。私はこの子達を信じている。

あなたの心に触れたい
手を優しく握り、低い姿勢で優しく語りかける。
ついに、その心に触れる。
5歳児たちの優しさが男の子に伝わっていく・・・。

優しさに包まれたなら
「うわぁぁぁぁぁ!」
みんなの優しさに触れて号泣。それを見て5歳児全員が駆け寄る。
「大丈夫だよ」
「うんうん」
次々に優しい言葉をかける。
心には触れた。だけど解決には至っていない。ブルーシートから降りることはできそうにない。無理に抱っこで連れ出すのも違う。どうすればいいか、みんな意見を出し合います。
「ブルーシートの上でご飯食べることになっちゃうよ?」
え?
今なんて言った?
「ブルーシートの上で食べる?」
それだ!
「じゃあ、ブルーシートの上でみんなで給食食べる?」と思わず提案する私。
「いいね!」
「やったー!園長先生大好き!」
「わーい!」
むしろ、私の方が君たちを大好きなんだけどね。
ブルーシートの上から移動しない子がいるなら、みんなブルーシートの上にのってしまえば良い。その発想はなかったなぁ。
逆転の発想。
相手を思い通りに動かすのではなく、自分たちが変わる。その子を変えるのではなく、周囲の環境を変える。まさに保育の目指すべき姿と同じです。
子どもたちの発想には敵いません。すごい子達です。本当に。
よし、やってみよう!

みんなで協力してみよう!
4歳児たちにブルーシートを広げることをお願いするとみんな元気よく飛び出してノリノリでやってくれました。
いつもと違う流れ、いつもと違う場所で食べることが急に決まったのに、すんなり受け入れる3歳児と4歳児たち。こっちもすごい。柔軟性がありすぎる。

移動開始!
というわけで、そのままブルーシートごと移動してみる。1人だけ、男の子が落ちないように支える女の子がいますね。さすがです。
男の子も、この移動に関しては特に嫌がってません。復活のきっかけを待っているのはこの子も同じなのです。

時間切れ(ありがとう)
すでに活動時間を過ぎて給食の時間に食い込んでいます。今日この活動のためにお休みなのに活動の時間だけ来てくれた5歳児の女の子。保護者のお迎えが来たようです。
この子がいなかったら、こういう展開になっていなかった。巨大こいのぼりの追いかけっこを始めて全体の遊びを牽引し、ブルーシートの上で3歳児に率先して寄り添っていました。
ありがとう。君がいてくれて本当に良かった。

本当の優しさってなんだろう
片時も離れない5歳児の女の子。トイレに行きたいのに我慢して手を繋いだまま男の子に寄り添います。
男の子はその優しさが恥ずかしいのか、うずくまっていますね。
そして保育士も男の子に寄り添う。理屈じゃない。手を触れたくなったから、そうしている。良い悪いとか、正解不正解じゃなく、ただ純粋な気持ちで動いています。
それで良いのです。

君は1人じゃないんだぜ
「どうしたの?〇〇くん、大丈夫?」と3歳児の仲間が声をかけてくれています。顔を上げて応える男の子。
仲間の力で復活する。これこれ、これですよ。しかもさっき、プールで押し潰していた子ですからね。みんな深い絆で結ばれているんです。

全て繋がっている
保育士が給食の準備をしている間、保育士が絵本を読み聞かせます。
気持ちを一つにするため。
そして、この最後の物語をみんなの物語にするため。
私が急いで本棚から探してきた絵本をみんなで共有する。

ともだちほしいな おおかみくん
「ともだちほしいな おおかみくん」
友達がほしいだけなんだ。仲良くしたいだけなんだ。安心したいだけなんだ。
そういう想いをみんなで理解し、共有する。
何かを感じ取って欲しい。
ブルーシートの上で暴れるのも
青いボールをぶつけるのも
仲間に入るのを拒絶するのも
こうやってみんなが仲良くなるために必要なことだったのかもしれません。
無駄なことなんて一つもないんです。私たちはそういう毎日を過ごしています。

仲間っていいなぁ
3歳児たちが「〇〇くーん」と声をかけています。
笑顔で応えています。
誰も悪く思っていない。なんとも思っていない。すごいです。
逆にいつもと違う給食の時間を楽しんでいます。1人のためにやったことかもしれないけど、結果的にみんなのためにもなっている。
子どもから出てきた「ブルーシートの上で食べる」という提案がすごく良いなと思ったんですが、どうですか?
子どもが共通の目的に向かって協力して解決していくプロセスがプロジェクト型の保育だとすれば、保育士が常識にとらわれない子どもの発想を面白がり受け入れる器が必要になります。

ピクニック
自由遊びの最後、5歳児は自転車に乗ってピクニックに出かけたところで終わっていましたね。
シートの上でみんなでご飯を食べるのは、まるでピクニックみたい。偶然とは思えない展開になりました。遊びと現実が繋がり、遊びの世界で体験したことが現実の世界に落とし込まれていきます。この体験は強烈に子どもたちの中に刻まれていくはずです。
ママに会いたくなっても仲間が支えてくれる。
失敗してもみんなで安心を分け合って、何度でも挑戦していく。
そんな姿を子どもたちは私たちに見せてくれました。
この先、どんな困難があっても、この子達だったらきっと乗り越えられる。
私はそう思わずにはいられません。
子どもらしく、自分らしく遊びながら、そして3歳児のサポートも協力して解決してしまいました。私のねらいどおり、いや、私の想像を超えて、子どもたちはそれぞれが過去の自分を乗り越えていったのです。
以上、こどもの日プロジェクトでした!
4話しかないのに一つ一つが長くて大変でした。読むのも疲れると思います。すみません。中心を姉弟に置いたとはいえ、できるだけたくさんの子どもたちの様子や物語を紹介したいと思ったら、こんなに壮大な話になってしまいました。
個人ではなく環境を変える工夫をする
失敗から学べるようにする
不安を安心に変える環境を作る
拒絶されてもそれが本心ではないなら寄り添う
保育や子育てに様々なヒントがあったかと思います。私自身もプロジェクトをやりながら、またブログをまとめながら、様々な学びがありました。
子どもたちの素晴らしさをたくさんの人に伝えたいと思ってブログを書いていますが、どこまで伝わるのだろうと毎回不安になります。そう、私も不安と一緒に生きています。
だけど結果じゃない。伝わるかじゃなく、「伝えたい」という想いに価値があると思っています。私が、私たち保育士が、どれだけ子どもたちのことを考え、努力しているか。それが読んでくれた方に伝わっていれば本当に嬉しいです。

姉の描いた「だいすきなかぞく」
子どもにとって家族ってかけがえのない存在です。私たち保育士がいくら頑張っても、やっぱり家族には敵わない。家族の代わりにはなれない。
だけど最近、5歳児クラスの子どもがよく言うんです。「私たち家族だよね」って。
友達であり仲間であり、家族。
なんという素晴らしい子ども達なんだろうと思います。
「こどもの日」とは法律によると「こどもの人権を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを主旨としているそうです。
こどもの日は、母に感謝する日。今の子どもたちがいるのは、毎日子育てに奮闘する、保護者の方たちの努力のおかげです。私たち保育士はそのお手伝いをしているに過ぎません。もし、この物語を読んで子どもたちが素晴らしいと感じていただけるのであれば、それは紛れもなく「お母さん」「お父さん」の毎日の努力の成果であると思います。
この物語を園児の保護者のみなさん、そして子育てをしている(していた)世の中全ての「お母さん」と「お父さん」に捧げます。
一緒に子育てを楽しみましょう。
子どもたちは、保育園で強く、優しく、元気に育っています。
読んでいただき、ありがとうございました!