こどもの日プロジェクト第3回です。不安が強いと遊べない。だからお互いに安心を与えながら遊んでいく子どもたち。不安を乗り越え、全員が子どもらしく遊び込める日は来るのか。それぞれの物語が動き出します。
♯3

紙芝居は文字通り絵本ではなく紙の「芝居」
第3回。今回は始める前の待ち時間で、こどもの日の紙芝居の読み聞かせをしています。こいのぼりのイメージをみんなで共有することで、この後の遊びに何かの変化が起きていくことを期待しています。
こいのぼりが滝を登って竜になる。そんなストーリーをみんなで体験することで、こいのぼりが変化のモチーフとして子どものたちの中で共通認識になっていくのです。

興味関心が子どもの原動力!
紙芝居で体験した物語の影響でこいのぼりへの興味が出たため、巨大こいのぼりの取り合いになっています。このように、遊びの前に何をするか、子どもに何を体験させるかで、遊びの方向性が大きく変わってくるわけです。
巨大こいのぼりを広げて遊んでいるため、ますますこいのぼりの存在感が増し、興味を掻き立てる。こいのぼりが大きいからこそ、遊びの中心になるポテンシャルを秘めています。

保育士は何を見守るのか
前回のラストで赤い台でお店を共同経営した2人。赤い台の引っ張り合いになっているところで私と目が合いました。
その後、スッと手を離す2人。私に喧嘩を見られたという「客観的な視点」があるから、喧嘩を自分で止めることを選んだ。保育士に見守られているという視点があれば、自分を客観視できる。逆に、誰も自分を見ていないと思っている子は、自分の行動を客観的に評価できないから結果的に自己中とか自分勝手な行動を選択してしまう。
誰かが自分を見ているという感覚は自己コントロールの育ちに絶対に必要なんです。子どもに自分をコントロールできるようになって欲しいなら、大人の存在を意識させないとダメです。この人は僕の存在を認識し、興味を持って見てくれている。その確信があるから第三者の視点を得ることができる。
だから、自由保育という名の放任をしていると、子どもは自己コントロールが育ちにくい。子どもが完全に自由に遊ぶのが良いというのは幻想です。本当に自由で良いなら、大人がいなくても子どもだけで健全に育つということになりますが、そんなわけがありません。子どもが育つときに、保護者も保育士も教師もいらないということはありえない。大人が作る安心と挑戦のサイクルの中で、様々な体験ができる環境の中で育てていくことが大事です。
また、「見守る」というのは大人が子どもに「圧をかける」のとは違います。
「そういうことをしてはいけない」という大人の価値観に従わせるのではなく、「そういうことはしないで欲しいな」という大人の価値観を感じてもらい、止めるかどうかは子ども自身の判断に委ねる。止めることを大人が子どもに強要するのではないんです。
子育てって難しいですね。

激しく遊びたいお年頃
前回の第2回では、あまり派手に行われなかった4歳児5歳児の男の子のボールぶつけ合い。前回はこの5歳児の男の子がお休みだったからかもしれません。この子が入ることで遊びが派手になる。
それなりに力を込めて顔を狙ってしまっていますね。
近くで遊んでいた子にボールがぶつかり「痛いんですけどー!」と指摘されました。保育士が指摘しなくても、仲間同士で指摘し合い、学び合う環境です。
繰り返しますが、青いボールはクッション性の高いふわふわのボールです。安全性が守られているから、ぶつけ合う遊びだとしても、すぐに保育士が止めないというわけです。この激しい遊びが子どもに変化をもたらしてくれるはず。

みんなのお店
さっき赤い台の取り合いをしていましたが、そこから前回のラストのように共同経営することにしたようです。言葉で会話して作り上げるというより、物を持ってきたり置いたりすることで無言で対話しながら進めていくタイプの2人。
言葉はいらない。2人にとって居心地の良い空間。
お店を作るという目的が共有されているので一緒に遊べている。
さっき取り合いをしている時に私に見られなければ、共同経営にはなっていなかったでしょう。きっとバラバラにお店を作って1人で遊んでいた。
保育士の見守りの意味が、ここにあります。
見守ると言うのは、ある意味、子どもを導くために行うんです。子どもに自由にやらせるだけになってしまっているのなら、それは単なる放任になってしまう。声をかけるわけでもなく、触るでもない。見ているだけなのに、子どもに大きな影響を与える。雰囲気で子どもを導く。

弟同盟
今日は最初から姉から離れて遊んでいます。実は2人とも弟で、姉が4歳児と5歳児クラスにそれぞれ在籍しています。
緑のバランスボードを電車に見立てて走らせる。
同じことをする喜びを感じています。大人がバイクでツーリングしているみたいな感じでしょうかね。一緒に走る喜び。1人では不安だから、同じ遊びを並行で行う。同じことをしているという感覚を味わいながら、自分勝手に遊んでいます。

みなさん、私のカメラのセンスをもっと褒めても良いんですよ
左に姉たち、右に弟たち。
別々に遊んでいます。交わることはない。それぞれの遊びに集中している。
自分らしく遊んでいる。第3回にして初めてこういう展開になりました。同じ環境で遊ぶのも今日で3回目。2回経験しているから、部屋の雰囲気も、遊びの様子もそれなりに予測できる。安心とは先を予測できる状態のことです。つまり、同じ遊びの環境を繰り返すと、人は安心を感じやすい。
不安が強い子どもがいる集団で全員が子どもらしく安心して遊ぶためには、こうやって同じ環境で繰り返し遊ぶように設定すると良いんです。

みんなのお店 その2
2人で共同経営していたお店は、3人の経営になりました。第2回で2人は複数人数でお店を作る喜びを知っていたので、今回すんなりと3人目を受け入れています。
それぞれのアイデアを、それぞれが受け入れる。喧嘩もないし、命令することもない。誰かが何かを置いたら、それに影響されて自分は別のものを置いていく。無言の対話です。自分も相手も尊重するという状態になっています。

電車を取り上げる
せっかくバラバラに遊んでいたのに、姉の方が弟を自分たちの遊びに引き入れています。
前回の途中までは弟が不安を感じているから守るために母親役を演じていた姉だった訳ですが、弟は最後のほうで自立の遊びに向かっていました。少しずつ変わってきているんです。
だから今日の時点では、姉の方が不安を感じているから弟を世話するという遊びになっている。逆転現象です。誰かの世話をしたいということは、世話をされたいということ。誰かを守りたいということは、誰かに守ってほしいということ。自分の願望が遊びで表現されるものです。
前回と同じ遊びをしているようで、意味が全く異なるんですね。変化を見ていかないと、子どもの成長も不安も理解できない。

寄り添う2人 その3
その結果、姉と一緒に遊んでいた5歳児の女の子たちは別の場所に移動してしまいました。
またしても姉弟2人だけになってしまいます。
弟が電車として遊んでいたバランスボードは、赤ちゃんのゆりかごになってしまいました。

ヤドカリとは宿を借りるという意味(2回目)
3歳児たちはヤドカリのようにプールの下に入り込む遊びに夢中。前回、4歳児が行なっていた遊びです。遊びは回を重ねると下の学年に降りてくる。
狭い。暗い。そういう同じ感覚を共有することで、どんどん仲良くなる。いわゆる、一体感ですね。これを心地良いとか楽しいと感じる体験を繰り返せば、他人と心を通わせることが好きな子に育ちます。
ヤドカリは宿を借りるイメージ。つまり、子どもたちは一緒に生活しているのと同じ体験を遊びの中で繰り返しているのです。家族になっていく擬似体験の遊びになっています。

借り暮らしの子どもたち
左に4歳児のヤドカリ。右に3歳児のヤドカリ。
部屋の中に同時に、仮の宿が誕生する。中央に巨大こいのぼり。奥には赤いみんなのお店。そして画面の後ろには姉弟の家があります。
遊びがまとまってきているんですね。3回目ですから、だんだんと遊びが収束していきます。これの理由なんですが、最初は個人個人がバラバラにやりたい遊びをしていて、それに満足してくる。そうすると複数人数で遊ぶほうがいろんな遊び方が出てくるので、誰かと一緒に遊ぶことに面白さを感じる。だから回を重ねるごとに遊びがまとまってくるんです。

お化け遊びとは、恐怖を乗り越える遊びである
「お化けだぞー」「きゃー!」
3歳児のヤドカリ。お化け遊びになっているようですが、前回も説明したとおり「怖さを遊びで克服しよう」としているんですね。
情緒不安定だったり不安が強い子に対して、親も保育士も「守る」「無理させない」という選択肢を選ぶことが多い。それではいつまで経っても独り立ちできない。過保護では子どもは健全に育たない。
必要なのは、怖さを仲間と一緒に乗り越える体験。
その環境が作られるなら、大人はただそれを見守れば良いんです。
あくまでも乗り越えるのは子ども自身です。大人はその戦いには入れない。子どもの戦いに大人が入ってはいけない。
1人で子どもが乗り越えられないと判断した場合、仲間と乗り越えられるような環境を用意すれば良いんです。
子どもの世界で子どもは育つのです。

みんなのお店 その3
どんどん増えて4人のお店へ。むしろ、もうこのお店は誰のものでもなくなってきているのかもしれない。
遊びを共有するというより、「みんなで作り上げている」という過程を楽しんでいる感じです。お店自体にはもうあまり意味がなくて、みんなで一緒にいることに価値が生まれている状態のようにも見えます。結果じゃなくて過程が大事。何をするかではなく誰とするかが大事。どんどん人を好きになる。

出たな、お邪魔虫!
4歳児と3歳児のヤドカリを持ち上げて、5歳児が青いボールを中の子に投げて当てる。そんな遊びになってきています。
恐怖をみんなで克服する遊びと、恐怖を与える遊び。それぞれが役割を持っている。アンパンマンとバイキンマンみたいなもので、善悪の役割の両方が遊びの展開に必要なんです。

抱きしめるという魔法 その3
やっぱりふとした瞬間に不安が襲ってくる。担任が部屋の反対にいても探し出して駆け寄る。
優しく抱きしめてもらう。それだけで安心する。

ゆりかごから電車へ
姉が担任のところに行った隙に家から出て電車に見立てたバランスボードで遊び出す。つまり姉が安定していれば弟は自立して遊べる。その段階まで来ています。
人は1人で生きている訳じゃない。常に周囲の誰かの影響を受けながら生きている。誰かが起こしている「何か」は、別の誰かの「何か」が影響を与えているかもしれない。だから、子ども一人ひとりを分けて評価してもあまり意味がないんですよ。大人ってすぐ個別の評価をしたがる。だけど個別の評価なんて無意味です。集団の関係性で子どもを評価しないと何もわからない。
目の前の子どもの気になるところは、私たち大人の影響を受けているだけかもしれない。兄弟の影響かもしれないし、祖父母の影響かもしれないし、園や学校のお友達や先生の影響かもしれない。玩具や部屋の環境の影響かもしれない。
環境で保育する、環境で教育するという意味がここにあります。子どもを取り巻く環境全てにアプローチすることで、影響全てを変えてしまおうという考え方なんです。理にかなっているでしょう?
よく考えればこれが一番効果的に決まってるんです。個別にアプローチしたって、勝手にいろんな影響を受けてしまうわけだから、こちらの意図したものと違う何かの影響でまた大きく変わってしまう。個別対応の時代は終わって、今はインクルーシブ教育の時代です。子どもたちが相互に関わり合いながら育ち合う環境を作る教育です。

遊びが挑戦になっている
4歳児と5歳児の男の子たちはボールのぶつけ合いが激しくなっていきます。この遊びが激しくなってきたから、姉は不安が増して担任のところへ行ったのかもしれません。
部屋全体が、恐怖や不安と向き合う遊びへ収束しようとしています。
ただの激しい遊びと思っている保育士では、この遊びの価値を見出せないし、自分自身の安心感で子どもを包み込むこともできない。
私に見守られているから、もっと言えば安心感で包み込まれているから、子どもたちは激しい部分を出せるのです。だから、形だけ真似したら怪我人が続出する保育になってしまうと思います。
同じような環境で保育していても、保育士によって意味も教育的効果もまるで異なる。そこに保育の面白さがあるんじゃないかなと思っています。
私は若い時から「自分がそこにいるだけで周囲に影響を与えて成長させてしまうような人間になりたい」とよく言っていました。20年経って、ちょっとずつそれができるようになってきたような気がします。なりたい自分になるには、それなりの年月と努力が必要なんだろうと思います。

どんどん失敗しよう(提案)
ボールをぶつける遊びを激しくやりすぎて、みんなから距離を置かれてしまいました。壁にくっつき、放心状態です。これも学び。どこまでやって良いのかを何度も何度も失敗することで、少しずつわかってくるんです。
若いうちの失敗は多ければ多いほど良い。
心の痛みは小さい時に知っておいた方が良い。
大きくなった時に、強く優しい人になるために。

なんて日だ!
転んで魚たちをぶちまけてしまい、泣く3歳児の男の子。
これも失敗。転ぶという文字通りの躓き。うまくいかないという体験。
ここからこの子が何を学ぶのか。そこに私は興味がある。

失敗がもたらすもの
転んだ様子を見て、自然と集まる3歳児クラスの仲間たち。とくに不安が強かった女の子も壁から離れて魚を拾うのを手伝っています。
誰かのためなら自分の不安も吹き飛ぶ。そういう子なんです。誰かのために力を発揮する。素敵な力を持って生まれてきているなと思います。
そして、転んだ子も、仲間が魚を拾うのを手伝ってくれたという体験をしました。人生で躓いた時も誰かが手を差し伸べてくれるかもしれないという気付きを得ることができたわけです。誰かが自分を見ている。辛い時には誰かが助けてくれる。そういう学びがありました。
転んで、失敗して、良かった。
「失敗したって良いんだよ。」
昨年度から、本園のキャッチコピーみたいになってきましたね。
失敗したって良いんだよ、の精神で大人も生きていきたいものです。

かけがえのない仲間
弟がバランスボードで電車遊びに夢中なので、1人で遊び出した姉。共同経営のお店で買い物をしています。
「〇〇ちゃんも乗ろうよー!」
1人でいるのを見て声をかけてくれる5歳児の2人。気にしてくれている。

3人で乗る
3人で乗り込む。狭いけど、それが良い。誘ってくれたことが嬉しい。
1人じゃない。それが不安を吹き飛ばしていく。
保育士にくっついて不安を解消するのであれば、仲間にくっついたときにもまた不安を解消できる。
大人の関わりから、子ども同士の関わりで解決していく。
主体的・対話的で深い学びの保育です。

やりたいことをすれば良い
一方、今日はずっと2人で遊んでいる5歳児女子たち。バランスボードを占領して感覚遊び。年長らしいというより、少し年齢が下がるような遊びです。
そういう日があっても良い。いつも一緒に遊ぶことの方が不自然です。誰とでもいつでも仲良しが良いというのは大人の幻想です。もっと自分に正直に生きていて良いんです。何をしたって良い。誰といたって良い。1人でいたい時は1人でいれば良い。
どうせ大人になったら誰かに気を使って生きていかないといけないんだから。
子どもらしいってそういうことです。きっと。

安心のプールに入る
弟を含めた3歳児クラスのみんなが一つのプールに入って、ただ寝そべっている。何をするわけじゃない。ただそばにいるだけ。
これ、最高の時間を過ごしていると思うんです。こんなに心を許してリラックスする体験、なかなかできるものではありません。

巨大こいのぼりに包まれて
こちらはもう一つのプール。4歳児女子が向き合って2人だけの世界を作って寝ている。それもすごく良い。それぞれ別の特定の子と遊ぶ傾向の強かった2人が、こんなに関係を深めていることに私は静かに感動しています。
2人の世界を作る遊び。外界と切り離すことで、より2人の親密さを感じる。
だから安心に包まれる。母親に優しく抱かれているのと同じです。

ルールなんてない遊びだから心が解放される
3人でバランスボードに乗りながら、小さいこいのぼりでぐちゃぐちゃになる。楽しくて、自然と声を出して笑っている。
夢中になるってこういうこと。子どもらしさってこういうこと。
この瞬間、姉でも母でもなく、1人の子どもとしてお友達と楽しい時間を過ごしています。
ここまで来るのに4時間かかりました。私はこれが見たかった。大人の力ではなく子ども同士の関わりによって、不安を安心に変えている。
嬉しくて涙が出そう。

不安定なところに座る遊び
ただ寝っ転がっているだけの3歳児たち、今度はプールのヘリに座る遊びが始まりました。何もしないだけで満足する時期とアクティブに動いて楽しさを共有する時期。静と動を繰り返すのは、遊びの基本です。

守る遊び
途中でトイレに行きたいけど、トイレに行っている間に誰かにおもちゃを取られてしまうかもしれない。3歳児の女の子が葛藤しています。そんな時、4歳児の男の子がおもちゃを見張っていてくれました。
さっき男の子たちに激しくボールをぶつけたことで孤立し、後悔している状態でした。誰かに優しくしたかったのかもしれないし、役に立ちたかったのかもしれない。
そうやって複雑に関係が絡み合って、人は助け合い、成長していくんです。

2人の世界
プールの中で2人の世界を作る4歳児女子2人。お店を経営していた子も、その様子を見て自分も仲間に入りたくなった。だけど入れる雰囲気じゃないことは察しがつく。
それくらい2人で遊んでますという雰囲気がすごい。外界を完全にシャットアウトしている。これを見たら普通は誰も入れない。

手を繋ぐと心も繋がる不思議
私の手を引き、遊びに引き入れようとしてくる。子どもたちはみんなどこか不安で、ふとした時に怖くなったりする。子どもとは、大人が守るべき存在。
保護して育てるから、保育と書く。
そんなことを思い出しました。

果敢にも上に立つという荒技に挑戦する手前の男の子(すごい)
3歳児たち。そのうち、ヘリに跨ってぐるぐる回る遊びが始まりました。
楽しいという感覚を共有すると親密さが急上昇するんです。一体感と言っても良い。最高の時間を過ごす3歳児たち。ものすごい盛り上がりです。動画に撮っておけば良かった。

リラックスタイム
2人の世界から出て、私の存在に気がつく。すごくリラックスをしている様子がわかります。「実家のソファでくつろいでます」みたいな。
この子も私の手を引き、仲間に入れようとする。楽しいことは好きな人と共有したいんです。今は私が対象ですが、子ども同士2人から3人へと増えていくと良いなと思います。

4歳児の物語が動き出す
穏やかに過ごす3歳児や4歳児5歳児の女子と対照的に、ボールを当てる激しい遊びが続く4歳児5歳児の男の子たち。
前回の第2回ではそれぞれが分かれて3歳児の遊びを見守るという動きを見せてくれていましたが、今回は3歳児たちは自分たちでまとまって遊べています。5歳児もまとまっている。そうなると、4歳児同士の交流が活発化されるため、彼らの物語が動き出すのです。

なぜ激しい行動をするのか
2人の世界を作ってプールに入っていた女の子が外に出て「そういうの、やめた方が良いと思うよ」と男の子たちに注意をしています。
「いや、僕はもうやってないよ」としゃがんでいる子はバツが悪そうに答えています。
心が満たされている子は、善悪をしっかりと認識して正しいと思う行動が取れる。逆に満たされていない子は行動で想いを消化しようとして激しい行動に出てしまう。
男の子たちが激しいボールのぶつけ合いをしているという表面上の評価ではなく、真の意味で仲間になって満たされていないから激しい行動を止められないんだと評価すべき状況です。
今日に限っては3歳児たちのほうが仲間意識が強固に作られて、満たされています。

邪魔をするのは自分を見て欲しいから
男の子を注意をしている間に場所を奪われてしまいました。
「ねぇ、どいて」と何度もお願いする2人。
2人の世界に入れないから、プールに入って邪魔をすることで関わろうとしてしまう。意地悪ではなく、ただ一緒に遊びたいという純粋な気持ちが引き起こす悲劇。
「どいて」と言われた瞬間、顔が歪むのがわかりました。
深く、とても深く傷ついている。仲間にどう入って良いかわからないから良くない行動をしてしまっただけ。困らせたり邪魔をしたいわけじゃない。

その場にいられないほどの傷つき
耐えきれなくて飛び出す。
でも「どいて」と言った2人も嬉しくはない。あの子の傷ついた顔を、私と同じように見ているはずだから。

私たちは悪くない
邪魔されたことを保育士に報告をしに行く2人。2人が発する言葉をそのまま受け取ると、告げ口をしに行ったように思う場面です。
だけど本当は違う。自分たちがあの子を傷つけてしまった。だから罪悪感や不安が高まって保育士のところに行ったのです。邪魔されたと話すことで自分たちは悪くないと思いたかっただけ。安心したかったんですね。
子どもが口に出す言葉が本心とは限らない。自分自身が本当の気持ちを認識していない場合もある。言葉だけで理解しようとしないようにしないと、子どもの心にはたどり着けません。

お互いに傷ついたんですね
言われて飛び出したけど、気持ちはどうにも落ち着かない。担任のところに行ってくっつく。
毎回この子は自分のクラスの担任のところへ行きますね。関係ができているんです。
目線はさっきの2人のほう。保育士に自分のことを悪く言われているんじゃないかと不安が増える。

子どもの力を信じると何が起きるのか
そして、3人が出した結論は、一緒に遊ぶ、というものでした。
保育士2人が行ったことは、話を聞いたり、ちょっとくっついただけ。子どもたちが自分で考えて自分で出した結論です。
大人が叱ったり、訴えを無視したりしたら、この結果にはならなかった。思考力、判断力、表現力を育てるのが教育ですが、子どもたちが自分たちで乗り越えたのは本当にすごい。
失敗から学ぶ姿がここにも見られます。子どもは大人が思っているよりも柔軟性があり、解決能力があるんじゃないかなと思います。特に人間関係においては大人同士で考えれば致命的な出来事も、子どもはすんなりと超えてきます。人間関係が壊れやすいけど治りやすい。思考も感情も柔らかいんです。

攻撃するという関わり方
ボールをぶつける遊びから派生して、こいのぼりで叩く遊びへ。
そこまで痛いわけではありません。こいのぼりはペラペラで、硬いところがあるわけじゃない。ただ、やられる方は嫌でしょう。
関わりたい、遊びたいという想いはみんなあるけど、関わり方が下手なんですよね。一番直接的な関わり方って、対面することなんですよ。攻撃することが一番、相手と向き合う構図になる。寂しさを紛らわすには誰かを攻撃するのが一番早い。
ネットの誹謗中傷なんかも、それが原因の一つじゃないかという説があるくらいです。攻撃することで自分が注目される。存在を認識してもらうことは、喧嘩をすることよりも生きるために必要な深い「願い」なんです。
そんなことをしなくても心が繋がっているという感覚があれば、激しく攻撃し合う遊びにはなりません。男の子たちは、まだ心が繋がっていないんです。

遊びは失敗の宝庫
本気で嫌がっているのを感じて「ごめんね」と謝っています。
失敗から学ぶ。遊びは失敗の擬似体験になることが多い。遊びの力ってすごい。
テンションが高くなった時に激しい遊びを自分でコントロールする体験。それがないと、テンション上がった時に羽目を外してしまう人間になってしまう。
この時間はしっかりと遊びに集中することで、自分自身の課題に気がついてもらうようにしていきます。

遊び込む力がもたらすもの
5歳児クラスの男の子たちは激しい遊びをやめ、人形を使った遊びに代わっていました。
遊び込む力があれば、激しく攻撃するような遊びなんてしなくて済む。工夫し、楽しむ力。人生に必要な力です。
複数人で遊ぶのが上手な人は人間関係も円滑に回りやすい。

そしてどこにいても私は君を探し出している
男の子の激しい遊びが落ち着き、部屋の中が穏やかな雰囲気になっていたとしても、心の不安は内側からやってくる。
どこにいても担任を探し出す。
個別的、応答的で温かみのある関わり。これが愛着、アタッチメントです。

こいのぼりは変化の象徴
さっき、姉たちが遊んでいたこいのぼりの残骸。それを弟が拾い集める。
無意識で繋がっている。

進化の兆し
プールの中に入れて、その中に入る。そしてそれを3歳児の仲間とシェアする。
こいのぼりは滝を登って竜になるという絵本の物語。ポケモンでも「コイキング」という鯉が「ギャラドス」という竜に進化するんですよね。
こいのぼりに触れた子どもたちは成長していくのかもしれません。
遊びはここまで。さぁ、片付けの時間です。

毎回同じ子が上に乗ったり中に入ります
3回目の片付け。
ブルーシートの中に入ったり上に乗る子が出てきてもそれは一時的で、すぐに自分から外に出て行きます。繰り返しの体験によって、自己コントロール力がついてきているんです。

タイミングって大事
逆に、最後に弟がプールに入った状態の時に私が全体に片付けを伝えたことで、弟がプールから出ないという状況を作り出してしまいました。真似をしてもう1人の3歳児の男の子も入ってしまっています。
最後までブルーシートに残る、いつもの2人。
これは、私がタイミングを間違えたから起きた状況です。子どもたちは悪くない。

結果じゃなくて過程が大事っていつも言ってることの例
ちょっとふざけて乗ってみる。そして外に出る。そんなやりとりが繰り広げられます。全部我慢して良い子でいることが素晴らしいのではなく、ちょっといけないことをやっちゃったけど自分で気付いてリカバリーできる力があるというのが良いんです。
失敗しない子ではなく、失敗から挽回できる子。それを保育では目指します。

良い顔を見せてくれました
この子は自分でプールから出てきました。
「僕出たよ!」と誇らしげに保育士にアピールしています。
これです。これが良い。
自分1人で乗り越えた時に、人はこういう良い顔をするんです。

泣くというメッセージ
残った2人。みんなに指摘され、怖くて泣き出してしまいました。そうです。怖いんです。
怖い時、人は動けなくなる。蛇に睨まれたカエルという言葉がありますよね。プールから出たいけど、周囲をお兄さんお姉さんに囲まれていたら、怖くて動けない。周囲の子たちはそれがわかりません。まだ引いた視点で物事を見る力は育っていません。中の子たちがプールから出られない原因まで気が回りません。

決定的瞬間も撮影できる。そう、iPhoneならね。
恐怖を感じた時に「泣く」「動けなくなる」のは理解しやすいけど、「攻撃する」という感覚が理解しにくい人もいるかもしれません。
「攻撃は最大の防御」という言葉があります。身を守るための防衛本能です。だから、言葉が苦手な人の方が、攻撃行動に出やすいのかもしれません。この子の場合もそう。言葉が苦手な子なので、行動に出やすいんです。
そして、みんなから「ダメだよ!」と手を出したことを指摘される。自分が拒絶されたように感じる。ますます行動で反応しています。
悪循環です。

涙を拭いて
だけど今日は違いました。5歳児の女の子たちが優しい言葉をかけ、涙を拭いてくれるのです。予想外の優しさにまた別の意味で涙が出てくる3歳児の2人。
人の優しさが沁みてくる時ってあるんですよねぇ。
言葉が苦手な子に対して、言葉で落ち着かせようとする大人は多い。保育士もそう。だけど5歳児たちの方がわかっている。大切なのは言葉じゃないんだ。相手がわかるような伝え方をすれば良い。言葉よりも相手に伝わる方法を工夫して向き合っていく。素晴らしい子ども達です。

誰に寄り添うのか、という問題
姉は弟ではなく、もう1人の男の子の涙を拭う。弟にはたくさんの5歳児が寄り添っているけど、もう1人の子にはみんな寄り添えていない。だから、自分が寄り添う。
私はこれが起きることを第1回の時に期待していたんです。
弟だから優しくするんじゃなくて、傷ついている人に優しくする。そのほうが自然です。姉だからとか、母だからじゃなくて、傷ついている人に対して優しさを出している。
それが「自分らしさ」「本当の自分」じゃないのかなと思うんです。
ついに、姉も弟から自立の時を迎えました。

抱っこも甘えを引き出してしまう
みんなの優しさを感じてしまい、今度は甘えで動けなくなる。優しさって、時として人をダメにするんですよね。優しさの中では、人は踏ん張れなくなる。ついつい甘えてしまう。
最終的に保育士が抱っこでプールから出すという結末になりました。

成長の機会を奪う
保育士に抱っこされた瞬間にまた泣いてしまう。恐怖から安堵へ変わったからです。
だけど、本当は子どもたちだけの力で解決したかったんですよね。でもそれを期待するとなると時間無制限の勝負になる。給食のスタートが大幅に遅れる。
実はこの日、私の都合で午後の予定を入れ替えたことで、時間を伸ばすわけにはいかなくなってしまったんです。それを察して保育士が抱っこで早めの解決を図った。十分な時間を確保できなかった私の失敗です。
時間も環境です。成長のための十分な時間を設定することも環境保育には大切な視点なのです。
失敗で人は学ぶ。私も学ばせてもらいました。子どもたちから大人が教わる毎日です。
次は最終回。子どもだけの力で解決していけるのでしょうか?
以上、第3回の解説でした!
おそらく、現場でこれを見ていても、ただ普通に遊んでいるようにしか見えないと思います。今までの流れの理解、保育そのものの理解、子どもたちの理解、それらが組み合わさって初めてわかる「物語の理解」があります。
子どもの評価は、物語の主人公として理解する時点が必要です。それぞれの物語がどのように影響し合っているのか。それを踏まえて観察しないと、ただの現象としてしか遊びを理解できないからです。現象という結果ではなく、過程という物語の中に大切なことがたくさん詰まっています。
よく誤解されてるのですが、私たちは子ども主体の保育をしているわけではありません。子ども主体ではなく、主体的・対話的で深い学びの保育です。子ども同士の対話が活性化されないと深い学びにならないので、保育士の関わりは必要最低限になるよ、ということです。そして保育士の関わりは応答的である、ということも付け加えておきます。子どものサインが先にあり、それに応じて保育士が関わる。あくまでも、子どもが自分の人生を生きていることが重要です。
大人の関わりが子どものためになっているかの観点で判断しています。子どもの最善の利益のために保育士は存在する。保育所保育指針にもそう書かれています。
そして「子ども主体」ではなく「子どもと保育士の共主体」の保育です。保育士が主体性を発揮しなければ、子どもを導くことはできないし、愛も子どもに伝わりません。子どもと一緒に遊ぶとか、会話をたくさんするとか、触れ合うことが保育士の主体性の発揮ではないんです。
一生懸命子どもを理解しようとするとか、喋らないけど想いを馳せるとか、うまく行くことを祈るとか、そういう前向きな姿勢全てが保育士の主体性です。保育士側にそれがないと、子どもは安心感を感じられない。そして何より、保育士が楽しんでいる雰囲気が、子どもをもっと輝かせると思っています。
さて、次回、こどもの日プロジェクト最終回です。最後の最後に彼らを待ち受ける展開にご期待ください。