5歳児のお化け屋敷プロジェクトも佳境に入ってきました。本番前の第10回と第11回の様子を解説していきます。完全に子どもだけでトラブルを解決していく姿を見せていく5歳児たち。本番が間近に迫り、最後の準備へと進んでいきます。
♯10
第10回。廊下を通る3歳児と4歳児の子にネタバレしないように、パーテーションで見えなくすることを思いつき、実行しています。しかし、白いパーテーションはお化け屋敷本体を支えるために使用していることを他の子から指摘されました。
「私休んでたんだからわからないよ・・・」
自分がいない時にもお化け屋敷作りは進んでいた。それを理解し、出席した子に聞きながら今の流れを必死で理解しようとしています。
ここ、結構すごいことなので解決しておきます。子どもは自分の体験が事実だと思って認識します。だから、自分が休みだった時の想像ができず、前回自分が出席した時の続きをやろうとする。今回もそうですし、みんなを癒す魔法のベンチの位置で揉めた時も前回の場所に作ろうとして今の位置を理解していなかったから起きたんです。
これが幼児の自己中心性というものです。自己中心性とはわがままという意味ではなく、自分の見たままの体験で理解してしまい他の視点が獲得できていないという意味です。
しかし、自分が休みだった時のルールや流れを確認して自分の認識を修正していこうという行為は、自分中心ではなく自分がいない時に世界が進んでいるという理解です。自分と他人で認識が違うということを理解していないとできません。5歳児ではこれができる。すごいですね。
このようにパーテーションを使ってダンボールの壁を安定させていきます。これも子どもたちのアイデアです。ダンボールしか使ってはいけないとは保育士側からは一言も伝えていない。これでOKです。
ダンボールの中に入って、通った人を脅かすお化け。ダンボールの中に入る遊びを何回か前にしていた男の子。私の読み通り、そういうお化けが誕生しました。
ゴミ箱お化けの誕生です!
お化け屋敷っぽくなってきましたね。
これは自分がダンボールの中に入った後に誰かに蓋をしてもらわないといけない。つまり、1人ではできない遊びです。
自信をなくして黄色いお面を自分で破ってゴムパッチンを作る子と、隣で寄り添うためなのか同じようにゴムパッチンを作る子。
寄り添う姿勢や心配する姿勢は良いけど、実際にお化け屋敷に関係ないことをしていく男の子と同じ行動をしている。本来、これは良いものではありません。
すると別の子たちが来て指摘しました。
「それ、お化け屋敷に何の関係があるの?」
そうそう。それを子ども同士で気付いて話すのはとても良い。
しばらく考えて「ゴムの音で脅かすの」と答えました。なるほど。それならギリギリお化け屋敷に関係あると言える。
だけどそれは現実から「逃げている」方向性を強化することになってしまう。言い訳と自分の心に嘘をつくことを重ねることになる。本当はお面をつけてお化けとして当日を迎えてほしい。
何も知らない乳児クラスの保育士に来てもらい、リハーサルを行います。案内係と整列係が実際の配置につき、受付係やお化け係もやってみる。
初めてのお客さんにテンションが上がる5歳児たち。当日のイメージも共有できます。
実際に体験した保育士に、どう思ったか、何に困ったかを聞いてみる。客観的な意見を聞き、改善案を考えていくわけです。
話の中で、ドアを開閉する役が必要であることに気がつきました。
「じゃあ私がドア係をやるね!」
すぐに対策が立てられました。
大切に作ったガムテープ包丁を譲り渡す。自分で作って自分で使うのではなく、全体の、全員のものにする。
みんな少しずつ、だけど確実に変わってきています。子どもたちの笑顔がそれを物語っている。
部屋を暗くして、ライトをつけてみる。当日をイメージして、今日は仮に付けてみます。
言葉で説明するのではなく、体験で理解させる。仮にライトを付ける体験を通して、当日のイメージを膨らませます。
最後の追い込みです。ゴミ箱お化けと看板と装飾、3つに分かれて作ることになりました。
こちらはゴミ箱お化けを完成させるチーム。
漢字を写す。文字への興味が自然に育っていきます。
だけど、ゴミ箱お化けを完成させるチームだったのに、ただ文字をダンボールに書いていくだけです。ただのお絵描きになっている?
「この夏の思い出は一生消えない」というフレーズも相変わらず好きみたいですね。
こちらは看板チーム。それぞれのアイデアを確認し合い、進めていきます。
今自信を失っている右の子は、他の2人の書いた看板を見て、自分の作品を隠してダンボールの中に隠れてしまいました。
何をしても上手くいかない。自分はダメなんだ。そう思っているのかもしれません。
ゴミ箱お化けのゴミ箱に入り、「生まれたー!」と今日も生まれ変わる遊び。
ゴミ箱の中にいるというのは自分がゴミであるというイメージに近いものがあるのかもしれない。ゴミは言い過ぎかもしれないけど、価値がないというイメージになっていると考えられます。
前回の挫折からまだ立ち直っていない。生まれ変わりたいのに、変われない。
ゴミ箱お化けのゴミ箱を2つ繋げています。1人で入るのではなく、複数人で入れるように改良したんですね。
みんなで中に入りたい。1人で遊ぶんじゃなく、みんなでやりたい。その気持ちが溢れている。自分の興味を優先する傾向にあった子が、みんなで同じ楽しさを共有したいと思っている。
この子も変わってきているんです。
お面を作る。今までは活動にちゃんと参加していませんでしたが、この最終局面に来て、ついに自発的に活動に参加するようになりました。
気持ちが乗ってきているのがわかります。みんなの雰囲気、盛り上がりに呼応するように全員がお化け屋敷の開催に向けて動き出しています。
自分が作った袋のお化けがなくなってることに気付く。
わざとでなくても数週間にわたって作っていれば壊れてしまうこともあります。だけど、一連の「壊した・壊された」の繰り返しで、壊されるという結果に敏感になっている5歳児たち。ネガティブなイメージでこの現象を理解します。
きっと誰かに壊されたんだ。そういう理解(想像)になってしまう。
子どもたちの育ちを促進するかのように、物を壊す壊されるが繰り返されてきた物語。その結果、物を壊されることに過敏に反応するというパターンをそれぞれが獲得してしまいました。被害者にみんなが寄り添い、加害者を責めるパターンの獲得。
これは良くない傾向です。このままでは「被害者」が「勝者」になるという価値観を作ることになる。これは非常に危険なことです。被害者と加害者は明確に線引きできるようなものじゃない。勧善懲悪で世の中を理解することは偏見を作り、争いの種になる。
みんな楽しく作っている。みんなで歌を歌いながら笑い合う。
そんな時に倒れそうなダンボールの壁を1人で支えている私。みんなはそれに気が付いていない。
・・・堪えきれず涙が出てくる。
私はみんなのために動いているのに。私のお化けがなくなってしまったことをみんな気にしてはいない。みんな楽しそう。
なんだか悲しい。自分だけ頑張ってるみたいで。
「どうしたの?」
すぐに気が付いて駆け寄る仲間たち。写真からも本心から心配している様子が伝わると思います。
作った袋のお化けがなくなっていることをみんなで共有する。そして、みんなで探す。
だけど見つからない。どこにもない。
「もう一回作ってあげようか?」
仲間たちが作り直すことを提案しますが本人は首を縦には振りません。
「僕の絵が破れてる・・・」
自分が描いたコウモリの絵が破れていることに気がつき、ショックを受ける。前回、誰かが絵を描いたダンボールをちぎって壊してしまった子。自分の絵が壊れていることを今日体験し、壊される痛みを知る。
自分が体験して深く理解する。
体験が、人を変えていくのです。
さて、さっきの袋のお化けの消失もコウモリの破損も保育士が積極的に解決に乗り出してはいません。それはなぜか?
明確に誰かが壊したことを私たちは見ていない。おそらく故意に壊れたわけではない。ここで犯人探しみたいな話し合いをさせると「疑い合う」「指摘し合う」関係を助長する。被害者だと主張した人にみんなが優しくして加害者にさせられた人が糾弾される雰囲気になる。だから、あえて集合させて話し合うことはさせません。
実は子どもたちもちょっとわかってきている。子どもたち自身もこの件に深入りをしていないから、犯人がいないことを理解している。多分どこかで、この被害者と加害者を明確に分ける解決方法を終わりにしたいと思ってる。
次のステップに行く時が来たのかもしれません。
看板チームが作ったルールの紙を拾う。もう踏んだりなんかしない。物を大切にするという気持ちが育っている。
偶然落ちてしまったという理解があるから、原因を探したりせず、持ち主だけを探します。大袈裟にしないで解決する。
「これ落ちてたよ」
作った子を探し出して、渡す。これで解決。深掘りしない。見つかったから、それで良いよね。そういう雰囲気になっている。
そう。これでいい。もう十分に君たちはぶつかり合った。人の心を深く学んだ。これ以上傷つけ合う必要はないはず。
・・・ここからは、これまでに学んだことの成果を出す時です。
♯11
第11回。本番を明日に控え、前日準備です。
前回のラストでなくなっていた袋のお化けを偶然にも発見!
「ダンボールが重いから切れちゃったんじゃない?」
「そっかー」
「じゃあ、もう落ちないように、たくさんテープを貼っておこうよ」
そうなんです。誰かが壊したんじゃない。自然に壊れた。そういうことだってある。誰が悪いとかはないんです。それをみんなで共有する。修理すればいい。ただそれだけ。
あの時、壊れた袋を見てふざけて犯人扱いする発言をしてしまった。今日は誰がやったかなんてどうでもいい。直したい。ただ直ったところを見て、あの子に笑顔になってほしい。
悪者を作る必要なんてない。大切なのはこれからなんだ。
人が成長する瞬間。そこに立ち会える喜び。私は素晴らしい時間を、素晴らしい子どもたちと過ごしている。
「貼るから押さえててくれる?」
「私?」
「うん」
「どうして?」
「○○ちゃんと一緒につけないと意味がないんだよ」
「そうなの?えへへ」
修理するという結果が大事なんじゃない。その過程が大事なんです。仲間と一緒に直すというその過程が子どもたちにとっての宝物。
私たち保育士が、結果じゃなく過程を大切にする保育をしていると、子どもたちの中にもそういう価値観が生まれてくる。
私は、それがたまらなく嬉しい。
前回、ゴミ箱お化けチームなのに別のダンボールに模写をしていた子達。書いたものを切り取ります。
そしてゴミ箱お化け本体に模写した文字を貼り付ける。なるほど。それが目的だったんだ。
「当たり前じゃん!だって仲間なんだから」
・・・かっこいいこと言ってくれるようになりましたね。
元々作っていた男の子と一緒に女の子2人も中に入る。3人でぎゅうぎゅうです。
男の子はゴミ箱お化けに入りたかった。それが楽しいから。そして複数人が入れるゴミ箱に改良した。今、男の子が楽しいと思うことと他の子が楽しいと思うことが一致し、一緒に中に入って笑い合っています。
プロジェクトの中で、自分1人で楽しいことじゃなく、仲間と一緒に楽しむ方が素敵だってことに気付きました。もう、みんなを無視して1人で遊ぶこともないでしょう。
どうしても制作に入れない。私にくっついて不安を払拭します。
挫折したまま3日が経ちました。まだこの子に、生まれ変わる瞬間は訪れない。
自らパーテーションの牢屋を作って閉じこもる。友達に嫉妬する罪深い人間。自らを牢屋に閉じ込めることで自分自身に罰を与えています。
そこへパーテーションの牢屋を動かして開放しようとする仲間の姿が。
嫉妬した相手が、自分の心を解き放ちに来る!
まさかの展開。心が解放されていく。
みんなでパーテーションを運ぶ姿は、運動会のパラバルーンを思い出させます。
そういえばパラバルーンの曲は「やってみよう」でした。
「やってみよう!」
子どもたちも掛け声と動きを真似て笑っています。
何事にもチャレンジしてほしい。やってみてほしい。担任の願いは子どもたちに届くのか。お化け屋敷の当日はすぐそこに迫っています。
片付けも終わりかけた頃、挫折した子が描いた絵が見つかりました。看板チームで描いた時に他の子の看板を見て劣等感を感じて隠した絵です。
ダンボールを運ぶ際に隠していた場所から落ちたのでしょう。
「これ〇〇君のでしょ?」
「え?」
嬉しいけど、嬉しくない。隠しておいたはずなのになんでここにあるんだろう?
「これは失敗したから、いらない」
それを聞いた仲間たちは優しく声をかけます。
「もったいないよ」
「失敗なんかじゃない」
「うまいと思うよ」
ビリッ!
紙を破りかける男の子の手を掴む女の子。
「貼ろう?」
「でも・・・」
「失敗したって良いんだよ!」
犯人扱いするという失敗をしてしまった過去がある女の子が、今失敗したと思っている男の子に声をかけています。ネガティブな感情の連鎖ではなくポジティブな感情の連鎖が起きる!
次々と声をかける仲間たち。
「そうだよ!」
「失敗したって良いんだよ!」
前日に担任の保育士が子どもたちに読んだ絵本。
「しっぱいしたっていいんだよ」
担任が子どもたちに伝えたかったメッセージ。
ちゃんとみんなに、届いていた!
「・・・わかった。貼ってみる。」
担任の方を向き、力強く頷きます。ついに生まれ変わる瞬間が訪れました。
しっぱいしたっていい。そのままでいいんだ。
仲間の声と担任の想いで、過去の自分を乗り越えていったのです!
以上、第11回までの様子でした!
後半も後半ですから、これまでの伏線回収が進んでいますね。
担任のメッセージ「しっぱいしたっていいんだよ」は子どもに向けてというのもあるけど、担任が自分自身に向けてのメッセージでもあるんじゃないかと思いました。
園長が行った七夕まつりや鼓笛ではあんなに素敵だった仲間たちが、自分がプロジェクトを進めてみるとトラブルばかりで喧嘩が起こる。それは自分のせいではないかと思うのは当然でしょう。
子どもたちは一連のぶつかり合いのおかげで成長しています。これはまず間違いなく担任の力です。子どもが一番すごいのはもちろんですが、微力ながら私たち保育士の力も影響しています。
最初にも言いましたが、成功が約束された物語なんて退屈です。どうなるかわからないから面白い。うまくいかないから面白い。失敗したって良いんですから。私が仕切るプロジェクトより、担任が行うプロジェクトのほうが先が読めなくて面白い。そして、悩みながら真剣に子どもと向き合う担任の不器用な想いが子どもたちを変化させていくんです。
大人の課題と子どもの課題が重なる瞬間というのが時々訪れます。自分の気持ちと子どもの気持ちがシンクロする瞬間がある。そんな時に奇跡のような物語が生まれてくる。今までもそういう展開を繰り返し体験してきました。
私たち保育士は、いつだって子どもたちから教わります。失敗したっていいんです。大人も子どもも、仲間と一緒にやってみようという気持ちが大切なんだから。
次回、お化け屋敷プロジェクトが完結します。どのような結末を迎えるのか、ぜひ最後までご覧ください。